図書館で『街の中で見つかる「すごい石」』を借りたら東京駅の蟹の化石が見たくなった。東京ステーションギャラリーで開催中の『みちのくいとしい仏たち』を見るついでに探しに行こうとリュックに本を詰めて出かけた。とはいえまずは腹ごしらえである。調べたところ京橋にあるBeeftro by La Conccinelleという店が財布と好みにそぐうていたので銀座線で京橋駅に降りた。そうしたら改札に向かう階段の壁がジュライエローである。
(この石は知ってるぞ。溜池山王のエスカレーターの壁にも使われていた。私はあすこで初めて街化石というものに出会ったのだ)
無いわけはないと立ち止まって仔細に観察したら、とても素敵なアンモナイトとべレムナイトの並びを見つけた。
縦断面もあった。
幸先がいい。
Beeftro by La Conccinelleは京橋駅につながる東京スクエアガーデンの地下1階にあった。近在にお勤めの方の昼食の邪魔にならないよう開店すぐの11時半に入る。メニューは三元豚ロースのローストこがし玉ねぎソース、カマスのフリットブロッコリーソース、鶏むね肉のローストキノコクリームソース、豚バラ肉のシュークルートの4種類。全てバゲットと珈琲/紅茶/オリーブ茶付きで1400円。注文取りのお嬢さんにシュークルートはなんであるか聞いたところザワークラウトだという。自分で作れないメニューを頂くのが外食の醍醐味なので豚バラ肉のシュークルートをお願いした。
心地よい酸味のある大量のシュークルート、ホロホロに煮込んだところに丁寧な焼き目を付けた豚バラ肉、ブロッコリー、人参、カリフラワー、そしてウェッジカットのフライドポテト。シュークルートの味わいが最近鍋とサラダチキンに多用している酸菜に酷似していることに気づき、豚バラ肉を買って同じものをこしらえたいと思った。スタッカートのように舌に届く鹹味は仕上げに削り落とした岩塩であろう。そしてまたパンが大変美味い。皮は硬すぎるほどにかりかり、クラムの気泡は非常に緻密で、何もつけなくても旨く、そしてほのかに甘い。
黒板にないオリーブ茶を勧められて断る人はいない。オリーブ茶は煎茶のような渋みはなく、青く際立つような苦みと高級なオリーブオイルの奥に潜むのと同じ独特の香気があり、なじみのない味だがもし自分の家にオリーブの木があったらもう一度試してみたいと思う程の魅力があった。
大変満足して店を出ると同じフロアにあるほとんどの店が長蛇の列である。近在の勤め人は大変だ。
来しなに見かけた「Art in Tokyo YNK」という看板に従い1階に向かった。ビルのロビーの片隅、屏風のようなパネルに若手アーティストの作品が展示されていた。
流麗な筆致が光琳を思わせる美しい作品。
作品名を撮ったがボケていた。キャンバスに金色の縁を作り、そこにステンドグラスのように色をたらし込むという大変手間がかかるだろう瀟洒な作品。
撮影不可だったが、小山恭史さんの写真コラージュも素晴らしくおもしろかった。多分言われ尽くされているだろうが、AKIRAや攻殻機動隊の世界観を髣髴とさせる看板やネオンサインのコラージュ作品である。
それから東京ステーションギャラリーに行った。
『みちのくいとしい仏たち』は、東北で仏師でない方々…具体的には大工…によって製作された、「民間仏」と分類される仏像を集めた初めての展覧会だという。東北というどの中央政権からも遥かな土地までようようたどり着き人の頼むところとなった仏の教え。持物の意味や機能をよく知らないまま手本に倣って作られた仏像は非常に質朴で味わい深い。例えば天台寺の如来立像の頭部は本来肉髻として鏡餅のように段になっているべきところが栗のように滑らかであったり、宝積寺の六観音像は冠が簡素化されて五輪の塔のようであったり、最勝院の十王像は道服のはずが肩口のしわの解釈を誤ったために身頃の狭い貫頭衣を着けているようであったり、正福寺の鬼形像はどこをどうしてそうなったものか足がどうみても偶蹄目の蹄のようであったりする。一方であやふやな模倣とは異なる文脈で、右衛門四良作の法連寺の地蔵菩薩立像が乳房を備えていたり童子跪坐像の底が丸く細工され許しを乞うように前後に揺れるようになっているところなどは施主の供養の願いを容れた造型であろう。彫刻というより工作と言った方がいいような、人体を観察した経験がないのではないかと疑いたくなるほどに不思議な比率と直線的な重心の像が多いが、中には岩手県一戸町の個人蔵の観音菩薩立像のように衣紋・体の重心とも大変美しい像や岩手県八幡平市某社像の山犬像また同蒼前神騎馬像のように骨格から確からしい動物の像もあった。朝日庵地蔵堂の十王像においては舞楽面によく似た突然の造形力が発揮されていたり、宝積寺の六観音像は比率の不可思議な長身でありながらお召がぞれぞれ工夫を凝らしたものであったり、なんというか一つの像においてすら解像度の差が激しく見ごたえがあった。熊野神社毘沙門堂の尼藍婆像と毘藍婆像がちょっとオタ芸っぽいポージングなのはなぜかとか、黒石寺の閻魔像が舌を出しているのは嘘をつくと舌を抜かれると戒めるためで膝が光っているのは許しを求めて撫でたからではないかなど想像が尽きない。様式よりも人心を優先した造形に心が共鳴するのかも知らん。
竜神、閻魔王、大黒天、多聞天の欲張りセットの本覚寺多聞天立像は施主の思いとそれにこたえようとした大工の誠実さが丸ごと好きだし、天台寺如来立像の思いのほか端正な横顔も好もしいし、恵光院の女神像の手のひらで包んで温めてさしあげたくなるような柔らかい造形も愛おしいし、勿論展覧会の看板の兄川山神社の山神像の真摯な可笑しみも大好きだが、一等好きなのは宝石の国の金剛先生のように端然とした威風のある観音寺の如来立像である。
本職でない方が手本に倣って丹念に作り上げた作品からしか得られない栄養は確かにあって、私はこの展覧会でそれらを十分に摂取することができた。
2400円の画集、タイトル箔押し、しっかりしたマット紙なのに軽く、角は丸く落としてあり、我慢できずに買ってしまったのだが、なんかこう、写真の光のあて方が不満である。例えば祀られていた時と同様の光源でさらに欲を言えば拝む人が見るのと同様の角度から撮ってもらいたかった。記録ですから無理ですねすみません。
大変満足してまだ時間があったので、KITTEのImtに魚學ことはじめを見に行くことにした。と、KITTEの1階になんか
縫 い 目 の な い 夏 油 様 が。
待て待て待て心の準備ができておらん。
物販の高専夏油様は全滅であった。
気を取り直してImtの魚學ことはじめに。
こちらは魚類研究者の岸上謙吉の論文の図版を描いた博物画家吉川繁蔵の博物画の展覧会である。「岸上が新種記載したにもかかわらず元標本が行方不明のサバ科魚類の有効性がなお支持されているのは、図が標本の代わりになるほどの精確性を保っており、その実態が詳らかであるからに他ならない」(展覧会解説より)という程のおそるべき精度である。
精密な博物画は写真より雄弁である。
あとは大好きな銀化ガラス。
遥か昔にこれらの器を作った人がいたからこそ、今の私がこうして銀化した美しい姿を拝めるのだと思うとありがたいことだ。
なんか不満そうな子が増えてた。
Imt階段を上ったところ、鳥の剥製の前の石材を仔細にみたらトラバーチンであった。『街の中で見つかる「すごい石」』によると、陸上の淡水から沈殿した石灰質の岩石で日本語では石灰華というそうだ。
ここらで燃料が品切れになったので蟹の化石はまた今度。