即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

【2023年9月22日 横浜散策】Deli&Restaurant Bar Maachin、TAKARADAのコラレン、港の見える丘公園、神奈川近代文学館「おまけ」と「ふろく」展

みなとみらい線町中華街駅2番出口を右に出てすぐのところにあるDeli&Restaurant Bar Maachin。

Deli&Restaurant Bar Maachin

Deli&Restaurant Bar Maachin Lunch Menu

いい感じのメニューが掲出されていたので入ってみることにした。6種類のタコスからから2種選べて900円、ドリンク250円は値頃である。

念のためGoogle Mapで検索したら評価4.5。ワーイヤッター!こちら食べログだと3.07なので所謂食べログに冷遇されている店である。

Deli&Restaurant Bar Maachin 内装

居心地の良さそうな空間。12時前に女子が二人で入って来て内装を見て「かわいいー」などと歓声を上げていてほほえましい。

前知識がないので店の人に直球でおススメを聞いたところ

Deli&Restaurant Bar Maachin Lunch Menu

ポークタコスと塩レモンチキンタコスを勧められた。ポークタコスにはパクチーが入っているとのことで別添えにしてもらう。

ドリンクはクランベリージュースをお願いした。

最初にクランベリージュースが運ばれてきた。

Deli&Restaurant Bar Maachin クランベリージュース

やや酸味が強く甘さが控えめ、ベリー感が十分にあり口の中がさっぱりする飲み口である。

これならポークの脂っこさを洗い流してくれそうだ。

持ってきてくださった大判のタオル地の手拭きは過激なほどひえっひえ。フィンガーフードで手が汚れることへの配慮を含む優れたホスピタリティである。

ZWILLING J.A.HENCKELS ポークタコス、塩レモンチキンタコス

結論から言うとこの組み合わせはバランスがよく吉であった。ポークタコスの豚薄切り肉の味付けはおそらくバーベキューソース。赤玉ねぎが肉のくどさをいい感じに落ち着かせている。塩レモンはたぶん胸肉で柔らかく、トマトのジューシー感がさっぱりしていてよい。

ただ、どう食べてもソースやトマト汁がぼったぼったぼったぼった落ちていく。タコスとはそういうものだと承知した上でトルティーヤをちょっときつめに丸めて奥を気持ち折り上げて手のひらで包むように持って頂くとよろしい。蛋白質、たらふくの野菜、十分な炭水化物、選べる種類、美味しいジュース、全てが健康で楽しい。幸先がいい。

チャーミングセール

道すがらの元町はチャーミングセールの終盤だった。買う物が見つからないだろうことを予見しつつさらりと歩いてみた。

このところ近沢レース店のハンカチが気になっていたので店舗に入ってみた。当たり前だがレースだらけでどこをどう探しても自分の人生に接点がないものばかりだった。ZWILLING J.A.HENCKELSに行ってみたらストウブの鍋が半額になっており驚愕したが多分この鍋の備えている機能は大体圧力なべで片が付きそうだったので必要ないだろうと思った。

TAKARADA

TAKARADA。

奥にオールドノリタケコーナーがある。こちらの品々が余りに素晴らしかったので撮影して良いか伺ったところ許可が出たので掲載する。

TAKARADA オールドノリタケ

こちらままごと用のチャイルドセットである。全て通常より小ぶりにできている。柄もなんともかわいい。こういう品で小さなお茶会を開くなんて良家の子ども冥利に尽きるだろうなぁ。

TAKARADA オールドノリタケ

こうも金彩が施されていておまけに幾何学模様だとイスラム圏の茶器と見紛う。紫薔薇・花幾何学模様風デミタスセット。

TAKARADA

なんと繊細で美しい茶器か。白地に優美に描かれた露草の奥ゆかしいことよ。

オールドノリタケ レモン皿

レモン皿。アフタヌーンティータイムにレモンを載せるプレートとして利用されていたとのことだが、別に突起を使ってレモンを搾るという話ではなく、人のところに回すときの持ち手なのではないかと思う。知らんけど。

コラレン

そして今回最も心を奪われたのがこちらである。

TAKARADA コラレン

TAKARADA コラレン

こちらは

コラレン(Cikakene=珊瑚のような)

コラレン技法とは、透明ガラス(白瑠璃)の極小ビーズを絵付け用絵の具に載せて焼き付ける技法。1908年に日本で特許申請され、生磁にグラデーションや図柄を上絵具でマットな感じに塗り、その上を細かいビーズで埋め、デザイン周りを金線で囲んで焼き付ける独特の技法である。(中略)日米両国に置いて、コラレン技法の特許を撮ったヴァンタイン社ではあったが、コラレン技法の製品を製造していたのは1910-1920年頃までの約10年間と言われている。(TAKARADA店で見せていただいた解説の紙片より)

このヴァンタイン社、横浜山下町268地に支店があったそうだ。

TAKARADA コラレン

TAKARADA コラレン

技法もすさまじいが、グラデーションが途方もなく美しい。膨張率の異なるガラスの粒を使っているのため焼成時の失敗が多く、現存数は少ないそうだ。

港の見える丘公園

美しいものを見て楽しくなったのでその勢いで港の見える丘公園に向かう。

港の見える丘公園には1947年に不審火で焼失したフランス領事館の遺構がある。

フランス領事館

風車はまだ水道がなかったころに井戸水を汲むためのものだそうだ。解説板によると、当時物の資料は残っていないのでフェリス学院の資料などを参考に復元したとのことである。

フランス領事館 階段

愛の母子像

花を持たせ水を供えてあるのは今でも強く悼む人がいるためだろう。パパママバイバイの横浜米軍機墜落事件の母子像であった。

神奈川近代文学館「おまけ」と「ふろく」展

ようやく神奈川近代文学館に到着し、「おまけ」と「ふろく」展を鑑賞した。結論から言うと、おまけやふろくは平時のものであり、戦時になると政府の意向と子どもたちの憧憬に応じて軍事色が強まりまた物資が不足すれば当然ながら早々に中断されるものであることがよくわかった。学校で教えられるのは施政のために組み立てられた歴史でありその内容を決めるのも何を語り継ぐかを決めるのも現政府である。このような一見ささやかな展覧会から新しい近代史の視座を得たことが非常に興味深かった。

おまけとふろくのはじまり

入り口に展示されていたのは越中富山の薬売りの「売薬版画」である。こちら所謂立版古と思われるがその旨の記載がない。

近代おまけ事始めとして、1891年(明治24)創業の村井兄弟商会の紙巻きたばこの付録「タバコカード」が展示されている。同社は1894年(明治27)紙巻きたばこHEROを発売、先行する煙草に対抗するためタバコカードを入れるようになった。展示されているタバコカードには、西洋の手彩色の婦人写真、トランプの札が描かれた花札様のものがあった。図録によると、

たばこカードは、欧米の煙草会社が紙製パッケージを補強する厚紙に絵柄を印刷して生まれた。

とのことである。良い販促品だ。なお、展示と図録では村井商会の創業がHERO発売と同年になっていたがネットで検索すると創業の年がサイトによってまちまちなのでWikipedeiaを参考にした。

目を引いたのは、1890年(明治23)の1月に「小国民」の付録となった「国会双六 一名日本歴史双六」である。日本が欧米諸国に比肩する一国家であると顕示するために慌て綴り起こされた国史がどのように子どもらに伝えられたかを見て取れる貴重な資料だ。初めて双六が付録になった事例として児童の投稿誌やらと一緒に展示されていたが、今図録を見返したらこの展示ケースについての記載が全くなく狐につままれた気分である。

振出しは神武天皇。そこから、日本武尊神功皇后仁徳天皇百済和気清麻呂菅原道真⇢藤原兼道⇢源義宗⇢平清盛源頼朝北条義時北条時宗新田義貞楠木正成南北朝足利義政⇢群雄起つ(武田、上杉)⇢豊臣秀吉関ヶ原徳川家康キリシタン禁制(ここもう少し当時の言葉で書いてあったがメモ不足)⇢徳川斉昭青木昆陽⇢ペルリ⇢徳川慶喜戊辰戦争⇢明治国会開設となっている。これが明治23年におそらく政府の意向を強く汲んだ出版社が子どもに示した日本の歴史なのである。神武天皇が振出しなのは想定の範囲内だが、現代あれほどもてはやされている信長が群雄の内にうずもれて影も形も見えないのが面白い。

1910年(明治43)「幼女の友」の付録「少女出世双六」は鏑木清方江絵、宮川春汀案。振出しは小学校で上りは嫁入り、コマとしてあげられている職業で時代を感じさせるものは、産婆、汽車切符売、花賣、女官などがある。このころは明治天皇の御代だったので女官が選択しうる職業の内であったというのが面白い。また今の双六では「三つ戻る」的な指示に該当するのが出世双六であるためか「堕落する」となっているのも面白い。一方の1918年(大正7)「日本少年」ふろくの「少年未来旅行双六」では、エスカレーター、エレベーター、バネ登山、空中船など未来の乗り物を駆使して世界中を冒険する姿が描かれているが、上りがペガサスなのが一等面白い。神話に戻ってるじゃないですかぁ…。

あとは1921年(大正10)「幼女の友」の「キクノオニワ」という組み上げ絵やら紙製の汽車のおもちゃやら。

1 グリコの登場

おまけと言えばこれは外せないグリコ。1922年(大正11)に、チフスに罹患した長男のために発案した滋養のあるグリコーゲンの入ったキャラメルの製造販売を始めたが先行する森永製菓と東京河岸(現・明治)に対抗するためにタバコカードに倣って絵カードを封入、これがさらにグリコの豆玩具(おもちゃ)に発展した。1935年(昭和10)におもちゃ作りを志願して宮本順三が入社、ここから郷土おもちゃや科学的な知見をもととしたおもちゃが次々と生まれ、同梱の引換証(キッテ)で交換できる豪華な引き換え賞品も誕生した。(図録より要約)

展示物で目をひいたのは、1930年ころのグリコのメダルである。なんと大坂造幣局に鋳造を依頼したものもあり出来が良かったとのこと。そりゃあそうだろう。1931年には映画付きグリコ自販機なる魅惑的なものが首都圏を中心に設置され、定価10銭のグリコのキャラメルが8銭で買えたこともあり人気を博したそうだ。そりゃあそうだろう、そんなんあったら私だってやってみたいわ。1935年(昭和16)頃にはおまけを入れた紙サックを組み立てて小さな店を作れるようになっていたようだ。切手の引き換え賞品としては、1924年-1933年に明治大帝御製(つまり明治天皇の歌集である)、1935-1936年新田藤太郎作肉弾三銃士の金属製の模型、1936-1940年軍歌集、1937-1939年アンチモニー製の軍艦文鎮や木製の軍艦模型などが展示されていた。このほか幼年幼女が無理なく続けられ巻末には世界地理などの資料も載っている「グリコ日記」があり、大変人気で市販もされていたようだがこちらも図録に記載がない。参考まで日本の古本屋のグリコ株式会社の検索結果にリンクを張っておく。

2 ふろくの革命

少年倶楽部」の五代目編集長・加藤謙一が先行する少年雑誌に追いつくための企画として1931年(昭和6)4月号に中村星果考案の65×72×16cmの大飛行艇ドックス号の組み立てふろくをつけたところ発行した8万部がほぼ完売という大反響。ここから大付録時代が始まるわけだが、ドックス号はマジででかくてこれは少年の度肝を抜いたであろう。1932年4月の「幼年倶楽部」にはどう見てもくるみ割り人形にしか見えない人造人間、同1932年「少女倶楽部」にはなんと「日光陽明門」の付録などがついていた。こちら27×36×30cmと非常に大きくしかも緻密で繊細な作りにもかかわらず保存状態が非常によく、流石北原照久コレクションであると感じ入った。1933年(昭和8)1月付録の帝国潜水艦大模型はなんと全長88cm。船腹が開き内部が見え魚雷もついている。なお1931年(昭和6年)「少年倶楽部」で田河水泡の猛犬連隊のらくろ二等兵の連載が始まった。

3 「少女の友」と「少女倶楽部」

1908年(明治41)創刊の女学生を対象とした「少女の友」は1932年から中原淳一を専属画家とし抒情的で優美な誌面と付録で一世を風靡した。1937年〈昭和12年〉には「少女の友ファッションブック」がおまけに付き、本誌には服の作り方が掲載された。また1939年(昭和14)1月の「少女の友」の付録は50枚の啄木カルタである。大人になって啄木の人となりをゴールデンカムイなどで(注:フィクション)知るとなんかお前こんなこと書いてるけど借金しまくって嫁置いて女郎屋に居続けよったやないかみたいに突っ込みたくなるわけだが、それはそれとして啄木の短歌のリリカルと中原淳一のたおやかな少女の組み合わせは実に見事で啄木が女子高生より女郎が好きでよかったなどと思った次第。事案事案!1934年付録の村上三千穂画筆「小倉百人一首かるた」も正月号とはいえ思い切った付録だと感心した。もちろん雑誌の大きさに納まるようにカルタは小さく箱は平たくこしらえてある。一方1932年(大正12)創刊の「少女倶楽部」は低年齢層向けに教養や学習を重視した誌面作りを行っていたという。印象に残ったのは1933年(昭和8)1月の同誌連載三上於菟吉『むらさき草子』の登場人物を押絵的に組み立てた飾り羽子板である。原画は廣瀬貫川という絵師によるらしいがこれが実に凛々しく美しくそして68×27×6cmとでかい。モチーフがにらみを利かせた着物姿の美女と前髪の美少年で武闘派感が強く一方でタイトルに反して紫が一色も使われておらずどういう物語なのか大変気になったのだがネットで調べきれなかった。

あとは1934年8月付録の吉野信子の小説『花物語「釣鐘草」』である。この花物語

没落した令嬢が困難に立ち向かう姿や、女学生たちの親密な関係が花に託して語られる。

という、なんかこう、このころからニポンジンはこうなんだな、と心強くなる小説である。

4 戦時下のおまけと付録

1937年(昭和12)7月の盧溝橋事件から日中戦争が開戦、翌年4月に国家総動員法が公布され、翌年内務省警保局図書課から「児童読み物改善に関する指示要綱」が通達された。1939年には第二次世界大戦が勃発、先の通達もあわせ、1940年6月号を最後に中原淳一の抒情画が「少女の友」の誌上から消え、内閣情報局から執筆禁止を命じられ「少年倶楽部」1941年10月号を以て田河水泡の「のらくろ」の連載が終了した。さらに1943年にはグリコが製造中止となった。グリコの章で書いた戦時色の濃い軍艦文鎮などはこのころの引き換え賞品である。グリコのおもちゃそのものも1939年頃からは内地で作るのが難しくなり天津でアンチモニーや土で製造していたようだ。宮本順三が天津から内地に暮らす家族に送った手紙などの展示などがあった。1940年11月号の幼年倶楽部にはグリコの切手の商品引き換えが終了になるとの告知が出ている。1937年(昭和12)2月の「少女倶楽部」の別冊付録はナイチンゲールの伝記でいかにもであるし、1941年1月の「少女の友」のふろくはやまもとかつぢの「隣組かるた」であった。

5 野球カードとカバヤ文庫

1949年(昭和24)に水あめの統制が撤廃されるや否や多くの企業がキャラメル製造に参入、その中でプロ野球チーム・巨人軍とタイアップした紅梅製菓が野球カードをおまけに採用、チーム全員のカードを揃えると野球道具などの賞品がもらえるという販促を行った。監督が出づらかったらしい。一方のカバヤは1952年から1954年にかけて「カバヤ文庫」の各文字をすべてまたは点数カードを50点集めると世界の名作を収録したカバヤ児童文庫一冊と引き換えるという販促を行った。カバヤ文庫には「しんでれらひめ」や「イソップ物語」など馴染んだタイトルがあるが、「巨人ウルルスの怒り」「義人コルハースの最期」「少年探偵トルルの追跡」「隊長ブーリバ」などもあり筋が大変気になった。検索していたらなんと岡山県立図書館がカバヤ文庫既刊131冊を全てネットで公開しているのを見つけたので謹んで紹介する。

digioka.libnet.pref.okayama.jp

6 戦後の少年雑誌

戦後の紙不足が解消されると漫画や絵物語を主とした雑誌が相次いで創刊し、読み物中心の「少年クラブ」などに代わって漫画や絵物語を掲載した雑誌が隆盛となった。1948年創刊の「漫画少年」は赤本漫画『新宝島』で注目された手塚治虫を起用、他紙芝居作家の水木しげる白土三平なども漫画家となった。各紙が付録の多さ豪華さを競うようになると、日本国有鉄道の雑誌特別運輸規定が改定され、ふろくの材質、重量などが厳しく規制されたという。このころの避けて通れないふろくとして1961年1月「少年」別冊付録の「少年探偵手帳」と「少年探偵セット」が展示されていた。少年探偵手帳江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ『超人二コラ』に少年探偵団の七つ道具の一として出てくる(手帳とあるだけで少年探偵手帳とまで特定はされていない)。手元にある少年探偵手帳完全復刻版によると、初めてリアルな少年探偵手帳が世に出たのは昭和37年、少年探偵団全集の引替え券6枚と交換だったそうだ。その後数回「少年」の懸賞品となった後、昭和34年、昭和36年、昭和39年に「少年」の付録となったらしく同書に広告が掲載されている。なおこのときの「少年」の付録は手帳、探偵用暗号訳、不思議な探偵めがねの他、別冊付録が6冊ついており、割とマジで運送が大変だったと思う。またテレビが各家庭に普及し番組が週単位だったため歩調を合わせて1965年に週刊新潮が創刊され、それを皮切りになど雑誌の週刊化が進んだというのも面白い。1959年のご成婚の際は、紙製付録縛りが特別に解かれたようで、同年5月号の「なかよし」には金属製の「皇太子さまごけっこん記念金の馬車ブローチ」と「皇太子さま美智子さま写真集」が付録となった

7 学年誌と「科学」と「学習」

小学館は1922年(大正11)の「小学五年生」「小学六年生」を創刊、爾来小学校の全学年に対応する雑誌を刊行した。学研は1946年に「科学」と「学習」を創刊、1963年(昭和38)以降「科学」にふろくを付けるようになった。学研は独自トラックで輸送したため鉄道の規制を受けずプラスチックやガラスを素材とした付録をつけられたとのこと。知らんかった。

8 戦後の少女雑誌

「少女の友」は中原淳一に代わり藤井千秋が活躍、「少女倶楽部」改め「少女クラブ」では手塚治虫リボンの騎士などを連載、一方の中原淳一は1947年(昭和22)にファッションに重点を置いた「ひまわり」を創刊した。しかし少女雑誌は1960年代に廃刊となり、かわって1950年代に創刊された「りぼん」「なかよし」などが漫画雑誌に移行して付録文化はキャラクターをあしらった紙製付録や別冊付録として引き継がれた。

 

以上、なんだかよくわからない熱意が湧いて「おまけ」と「ふろく」展のレビューを長々と書いてしまったわけだが、当初の目的が「お子様向けのかわいいおまけや付録をいっぱい見ちゃうぞー」だったところ、「思ったより時代にぶん回されてるわぁ」という感想に至った。内務省の通達からもわかるように、少なくとも明治から太平洋戦争終戦までの児童・学童向けの雑誌は、教育、娯楽とともに、政府が「小国民はいかにあるべきか」を子どもらに提示する媒体としての役割を負っていたといえるだろう。あの頃の子どもらが夢見た(または子どもらに示された)世界や未来がどのようなものであったかを辿ることのできる良い展覧会であったことよ。

ちなみに付録についての規制は

雑誌市場の低迷により、業界内で増売のために基準緩和を求める声が出始め、2001(平成13)年に大幅な改訂がなされた。重量や寸法といった規定が削除され、柔軟なものとなった結果「バッグやマウスパッド、ハンカチ、CDなどさまざまなグッズが付録として展開されることとなった」ことが示されている。(雑誌に付ける付録について、ルールのようなものがあるか。過去の変遷も含めて、知りたい。

という形で撤廃されている。だから最近のおまけとふろくはあんなにフリーダムなんだな。

 

参考文献:

公益財団法人神奈川文学振興会編 (2023)「おまけ」と「ふろく」展 子どもの夢の小宇宙 県立神奈川近代文学館

串間勉(1999)少年探偵手帳完全復刻版 光文社

 

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