即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

それは美談ではない。

人の死にかかわることが書かれているので閲覧注意。

警告はしたぞ。

 

母は私に何か良いことが起こると、下の子が見守ってくれているからよ、という。

なぜそんな風に考えるのかと問うと、自分が教会で下の子に「お母さんを見守ってあげてね」とよくよく頼んでいるからだという。

私が、いや、もうあの子はゆっくりしていていいんだよ、私のことを見守るなんてことはしなくていいんだよ、というと、怒り出す。

それはそうかもしれないけど、私がそういう風に思うことを止めないで、と。そのくらい自由じゃない、と。

 

私があなたのそのようなふるまいに対して否定的であることも自由でいいんでないかね、と面と向かっては言わんが。

 

「死んだ人間に遺された人間を見守るよう頼む・または見守ってくれていると信じようとする」というのは、美談のようでいて非常に気味の悪い発想である。

幾分か譲歩して、魂のようなものが死後も残り、それが意思を以て何かをなしうると仮定したとしても、死んだ、死んだ後にまで、そんな、生きている人間のことを頼むなんて、やってはならないことだ。

後に心残りがあろうと、なかろうと、生きている人も、死んでいる人も、何をなすかは全くの自由だ。

そもそも何かを誰かに頼むことは、あまりすべきではない。

頼むくらいなら、自分でやればいいのだ。

勿論母はいろいろ私に心を尽くしてくれている。それは否定するところではない。

しかし、そうであったとしても、死んだあの子に、いや、誰であったとしても、死んだ相手に、何かを頼むなんて、それは非常なる生者のエゴではないか。その上死んだ相手に自分の願望を付託して、それが死んだ相手によって叶ったの何のと言い出すなんて、エゴを通り越して奇怪ではないか。

孫を喪くした祖母なんて正気で居られるわけがない?そうやってあの子に意思があるかにふるまうのも、私の小さな幸いがまるであの子の成果物のようにふるまうのも、悲しみを癒すまたは正気を保つための安全装置だ?年寄りの言うことなんだから黙って聞いてやればいい?

嫌だね。

全く以て嫌だね。

死んでから位、あの子を誰かの付託から解放してやってくれ。

どうか。

あらゆる人の思いから、あらゆる人の世の義務から、あらゆる人の世の規律から、あらゆる天国や地獄の定めから、人が考え出したもの全てから。

どうか、どうか。

あの子を、誰もかれもを、すでに死んでしまった人々を。

自由に、そっとしておいてやってくれ。

 

というわけで私は、老いた自分の母親があの子が天国で待っているだの死んだら天国に手を引いて連れて行ってもらうんだだの言い出しても黙って堪えているが、あの子があなたのことを見守ってくれてるから幸せなのよ、などと言い出したらどうしても心中で反論してしまうのだ。

あの子にもうそんな仕事をさせないでおくれ、と。

私は私で幸せになるから、と。