即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

ボーン・クリスチャンとカップリング

昨日飲み屋で会った方から、幼児洗礼を受けたクリスチャンをボーン・クリスチャンというという話を聞いた。

ボーン・クリスチャン、信仰に疑いを持たない子はいいが疑いを持つ子は異端扱いされるのが通例だという。その方はカソリックの中学校の生徒だったころ、教師であった神父に連れてられて遠足に行き、一通りの課題をこなした後クリスチャン以外は自由にしていいと言われた際、同じカソリックであった友人と一緒に「自分たちも自由にしたい」と伝えたところ、その神父からリアルで異端者呼ばわりされたそうだ。

中学生を異端者呼ばわりするのは、神父としては正しいのかもしれないが、教育者としてはあかんだろう。

その方は、幼い子供は大人の言うことを疑いなく信じるが、長ずるにつれて家庭と教会を中心とした小さな世界の外に多様な信仰や世界観があることに気づく。そのとき所与とは異なる考え方を持つようになった子供を容れられないのがキリスト教であるが、世界は多様なのだからそのようなスタンスはあまりよいものではないとの見解をお持ちだった。ついでにいうとサウジアラビアにいらした際、イスラム教徒に「自分はカソリックだがイエスがメシアとは信じていない。なぜなら実際に会ったことがないからだ」と言って大うけしたそうだ。ユダヤ教キリスト教イスラム教を分かつのは「誰をメシアとするか」であるから、イスラム教徒にとってそれは大変愉快な発言であったろう。

宗教とは要はカップリングなのだ。掛け算の前後にどの定数または不定数を持ってくるか、項をいくつ用意するか、どちらを先にするか。初めてカップリングを知った際これが唯一至高と思っても、深堀すると世には数多のカップリングが存在することを知る。それで別のカップリングに惹かれ所与のカップリングから別のカップリングに移りたいと思う。或いはいっそカップリングというフレームそのものから離れたいと思う。それでも所与の組み合わせのカップリングにとどまれといわれる。

それがボーン・クリスチャンなのである。

キリスト教には哲学または人生観または行動原理として優れている部分があると思う。しかしそれはあらゆる哲学または宗教を等価に据えての所感である。一方で全ての宗教はその成り立ちからしても結局のところ誰かを統治するために発明されたシステムであり、よく鍛錬された科学に親しめば親しむほど、どこかの部分で必ず思考停止を要求してくる宗教という思考体系は、少なくとも私の人生には必要なものではないと深く実感される。

なのでそのような所感を抱いてしまった私としては、「私はあなたのカップリングを尊重する。だからあなたも私のカップリングまたはカップリングというフレームから離れて世界という物語を見ることを尊重してください。お願いだからあなたのカップリングを唯一絶対のものとして私に及ぼそうとしないでください」と切に求めるのだ。

ホットイテモオモシロソウダッタラジリキデノゾキニイキマスンデスヨー。