先日元夫が来訪し、元夫の実家の墓地に納めるために下の子のお骨を連れて行った。大変ありがたかった。下の子は元夫の実家が大好きで頻繁に遊びに行っていたし、元夫の墓地は山の中にあって環境がよく、元義父母もよく訪ねてくれるだろうからだ。
一方で私は自分の父方の墓に下の子のお骨を納める気にならないでいた。
そもそもどうしても手放したくない。理性も知性もあの子が喪くなったことは承知しているのに。
だって。
納骨なんかしたら。
まるであの子が。
(本当に、死んでしまったようではありませんか)
訪ねてきた元夫に、祭壇とか作ったの?と尋ねられた。そんなものはない。あの子が最後に暮らした部屋は、あの子がいつ帰って来てもいいように、今でもただ留守にしているだけのように、ベッドには新しいシーツをかけ、あの子が真ん中で眠れるように脇に気に入りのぬいぐるみを置き、机にはあの子が学んだ資格の本を綺麗に並べ、あの子が使っていた数本の眼鏡、それからペットボトルのお茶を置いている。
ハンガーラックにはあの子が最後に持っていたリュックサックと四季の服をかけ、箪笥には肌着をしまってある。
祭壇なんて作らない。あの子の日常は私が死ぬまで続けばいい。
私がなぜうちの家系の墓に納骨したくないか。墓参が一泊旅行になる程度に遠方で、霊園の敷地が矢鱈広く、当たり前だが周りに墓しかなく、つまらないうえに気安く会いにいけなくなるからだ。更に西の墓なのでお骨はカロートに流し込む仕様になっている。骨壺が整然と並ぶような墓ではないのだ。一族の骨は混淆し、どれがどれともわからないのだ。
それはちょっと。
私が生きているうちは。
ちょっと。
別に自分の骨はどうなろうとかまわない。海にまかれようが墓に混ぜられようが何なら山中で蝕まれようが死んだ後のことだもの知ったことではない。でも、あの子のお骨は惜しい。あの子のお骨をそんな風に混ぜてしまわないでいただきたい。あの子はまだ境界を保っていてほしい。あの子は、私が生きている間は、生きている間位は、個であってほしい。
それが余りお行儀のよくないことであることはわかっていた。お墓に納めることがマナーであることは重々承知していた。
(でもどうしても、私のこころが嫌だというのです)
だからあの子の一部を元夫が納骨してくれることを私はありがたく思ったのだ。暫くは元義父母の家にいることだろう。でもそのうち私も数度訪ねたあの山間の木漏れ日の差す斜面の墓に納められるのなら、それはとても美しいことだ。私はどうしても未練があるから、不合理な未練があるから、元夫の方できちんとしてくれるのは何よりなのだ。
あちらできちんとしてくれるので、私はずるをして、ずっとずっと、私が死ぬまで、あの子をできるだけあの子のまま、私の家に置いておこう。
もともと母には、下の子のお骨を暫く手元に置いておきたいという話をしていた。いよいよその気持ちが高じ、死ぬまで手元に置いておきたいという決意が固まってしまったので、改めて母に、多分私は死ぬまで下の子のお骨を納めないと思う、と伝えた。
母は、あなたがそうしたいんだったらそれでいいんじゃない、と言った。
私も…母は少し遠くを見るような目で言った。私も、もし私よりも先に息子が死んだら、そのお骨は手放せないと思う。
その言葉を聞いたとき、私は、何度も味わったはずの転回を、好ましくない覚醒を、まるで初めて味わうように、不意打ち的に体感した。
(ああ。
この人は、この人は。
この人にとっては。
目の前にいる私は。あなたの娘は。
相変わらずいないものなのだな。)
随分小さい頃から、父母にとって私は義務なのだと思っていた。どうしても私は父と母に慈しまれているという感覚を持つことができなかった。父には情がなかったのでそういうものだと思っていた。だが母は、どうしてか私を置いて、一心不乱に私の弟を慈しんでいた。ある時母が、弟に向かって、優秀な分は全部お姉ちゃんが持って行っちゃったからね、ごめんね、と言っていたのを聞いた。私は別に弟の何を奪うつもりも奪ったつもりもなかったが、母にとってはそうであるようだった。そうして私がどんなつもりであろうとも、母にとっては私よりも弟が、弱くいたいけで守り慈しむべき存在であった。
下の子が亡くなって、富士山で火葬を済ませたその晩に食事をしていたとき、母が
「私はあなたのことを、父方のおじいちゃんとおばあちゃんに認めてもらうための道具にしていたんだと思う」
と言った。
私にはあたたかく抱きしめられた記憶がない。いつだかそのことを母に尋ねたら、そのころ推奨されていた育児方法が泣いたら泣いたで放っておくほうが自立心を養うのによいというものだったからできるだけ抱っこしなかった、という答えが返ってきた。私の記憶は存外確かであった。
ついでに言うと私は非常に小賢しい子供だった。幼稚園のとき、食事の前に神様に感謝の祈りを捧げることを強要され、それが余りにいやで毎回逃亡していた。そのころの理屈は、
「祈りというのは自発的なものであるとあなた方シスターは説いているのになぜ強要するのか。もし祈りがあなた方の言う通り自発的であることを求められているのであれば、昼食の前に号令に従ってバカみたいに全員そろって目を閉じて手を合わせる必要などないはずだ。神に対する思いが心に生まれたときにひざまずくなりなんなりして神に祈りを捧げればいい。説いたことを忘れ、矛盾に気づきもせずに形だけの祈りを強要する、あなた方大人というものは全くのバカばかりだ」
というようなものであった。勿論ここまで気の利いた言い回しで考えてはいなかったがそういうことを思って逃亡していた。当然大変な問題児扱いで母は毎日のように幼稚園の先生に呼び出されていた。帰り道の長い坂を一人で下りながら、私は、
(どういわれようと仕方がない。心のない形だけの祈りに価値があると思っている方がバカだ。従うことはできない)
と、懸命に思っていた。いかにもの清らかさを装ったシスターらが本当の心からの祈りの大切さを認めようとせず形だけの祈りを強要するその空々しさ嘘っぱちが心の底から嫌だった。ただこんな理屈が無自覚なシスター連に通用するとも思っていなかったので沈黙していた(実のところ一連の反抗の最初期に一度理屈をシスターに開陳したことはあったが「そんなこと言わないでみんなもやっていることだからちゃんとしましょう」と空虚な諭しを付されてしまいになった)。そんなわけで、私が母に恥をかかせ続けたのは事実である。
しかし一方でそれほど小賢しい子供だったから全く合わないことが予見されたであろうカトリック系のお嬢様学校への入学をよりによって幼稚園の先生から強く推奨された。この子なら絶対に受かるから絶対に受けさせてくださいと言われたらしい。父方の祖父母はカトリックでもし娘が生まれていたら件の学校にぜひ入学させたいと思っていたそうで、私が受験を推奨されたことを伝えたところ大変喜んだそうだ。そうして父母は私を受験させた。学習面のみならず財政面においても、何の準備もないままに。
「記念受験のつもりだった」にもかかわらず私はあっさり合格し、父との結婚を反対されていた母は祖父母に対してようやくそれなりの対等を覚えたらしい。しかし私の入学をあれだけ喜んだ祖父母は父母の期待に相違して私の学費については何の援助もせず、財政面を理由に退学させるわけにもいかなかった母は、私のことをよく金食い虫と罵った。
懐かしい。
私はどうしても子どものころに愛されたという実感を持たなかったが、それはやはり本当だったのだ。父母が用意してくれた環境は過分なほどに良いものだったと思う。でも、私はたぶん、いなくてもよかった、あるいはむしろ、いない方がよかった子どもだったのだ。
ようやく最近になって、実のところ私は、もし叶うのであれば誰かにとっての一等大切な人になることを望んでいたのだということを理解した。しかし多分それは永遠に難しいことなのだ。私は人生の最初期にそのようにもてなされる機会を失し、そうしてその後奇特な幾人かによって何度か機会を与えられたにもかかわらず誰のことも上手に大切にもてなすことができずじまいだったから、今でも私はいびつで全体下手くそなままなのだ。己のあまりの下手くそを恐れるあまり、こちらから何か言いたいのを繰り延べしたり、あちらが何か言いたげなのを白い顔で躱したり、あるいは突然過剰に踏み込んで相手を引かせた挙句、結局ひたすら活字の内に潜り込むのだ。
そういう風に育ってしまって、そういうことを学びそびれて、そういう風に死んでいくのだ。
そういう生き物なのだ、私は。
そういう風に。
母よ、母よ。
やはりあなたには、あなたにとっては、自分の子どものお骨をどうしても遠くに遣れないと申し訳なく伝えている目の前にいるこの娘は、他の誰とも同じように、流すように埋葬して構わない存在なのだな。一度道具と分類された子は、いつまでもその懐には還してもらえないものなのだな。
そうして。
今も生きてくれている上の子よ。
喪われてしまった下の子よ。
ただの白くて軽い塊を、もう終わってしまった物質を、どうしても離せずにいるどうしようもない執着をただの迷いを、私という親から下の子への愛と錯覚することを。
どうか。
赦してほしい。