僕のとなりで咲いていて
妻と連れ添ってもう52年になる。
ほんとうは、50年の結婚記念日に、どうしても叶えてあげたいと思っていたことがあった。しかし果たせず、…ようやく最近になって叶えるめどがついた。
僕は花屋で妻の好きな花を買い…ピンクのガーベラだ…帰宅した。カードも書いた。不器用だったので書くことは決まっていた。君を幸せにしたい。
プロポーズと同じ言葉を、僕は52回繰り返し伝え、そしてきっとまた来年も伝えるのだろう。
二人で作った食事を終え、僕が彼女に花を渡し、彼女が僕に来年用の手帖を渡して、いつもならそれで結婚記念日は終わる。
だが今年は違う。
彼女を警戒させないよう、恐れさせないよう、しかし期待させないよう、僕は慎重に言葉を選んだ。
「実は…超能力が使えるようになったんだ。」
「なにて?」
白磁のような真顔で彼女が返してきた。いや、気持ちはわかる。わかるとも。でも僕はずっと努力をしてきたんだ。君がもう気にも留めていないかもしれないかもしれないことのために。
そんな努力は必要なかったかもしれない。それならそれでいい。でも僕は君に取り戻してほしかった。
僕と出会う前のことを。
君は僕と出会ったとき、既にとても素敵なひとだった。君が忘れてしまっていても、君を作ったのは僕と出会う前の君の暮らしだ。過去君の周りにいた人たちが、僕が一目ぼれするほどの君を構築したんだ。
だから僕は君に、僕と出会う前の過去を、取り戻してほしかった。
「いや、実はその、ずっと超能力の講座を受けてて…」
(ああ、僕はあのまなざしを見たことがある。どっかの寺でみたお地蔵さんの顔だ。実は半目で真顔で結構怖いのだ、お地蔵さんは。)
「あの、講座のお金はその、自分の小遣いから出してたから大丈夫…」
(僕が言いたいのはこんなことじゃない。
こんなことじゃないことを、なぜ僕はしゃべり続けているんだろう。)
「…なにができるの?」
妻は小首をかしげ、少しあきれたような、困った子供をあやすような微笑みを浮かべ言った。ああ、この顔だ。口下手な僕を、言いたいことが言えずにどんどん遠ざかってしまう僕を、優しくなだめて引き戻してくれる、この顔。
「…記憶を読めるようになった!」
「えええ?」
妻の心が遠ざかった。
に ん ち し ょ う を う た が わ れ て い る !
「違う、その…ええと。」
なんとか僕は伝えた。僕の超能力の目的を。
それなりの時間とお金をかけてまで、何故それを手に入れたかったかを。
僕が妻と出会ったのは実に62年前のことだ。僕が小学六年生、彼女が中学2年生。近くに住むおばが、自分が教師をしていた中学校で「発見」した彼女を引き取った半年後のことだった。
彼女は確かにその中学校の制服を着ていたのに在学記録がなかった。制服の他に身元の手がかりになるものはなく、捜索願いも出ていなかった。いまならマイナンバーカードの登録データで顔の照合もできようが、あの頃そんな便利なものはなかった。本人が記憶をなくしていても、周りが覚えていれば身の置き所もあるものだ。しかし彼女には体と心と制服の他には何もなかった。
まずは入院、そして体と心に記憶喪失以外の異常がないことがわかった後は、どこに身を寄せるかが問題になった。
そのとき、事故で夫と子供をなくしそれでも教師を続けていたおばが、うちにおいでと言ったのは自然な流れだったと思う。
僕が彼女の存在を知ったのは12歳の正月だった。
おばちゃん養女を引き取ったのよ、と引き合わされ、自己紹介を求められたとき、僕は緊張のあまり自分がその時はまっていた電子工作について延々と話したらしい。
彼女はしばらく私の話を聞いてから、言った。
「それで、何ができるの?」
彼女が聞いてきたのは、当たり前だけど、僕が作っている電子工作でどんなことができるか、ということだった。
でもその後、母親から彼女の身の上を聞いて、僕はずっと、こう答えたかったんだ。
僕は、できるよ。
君の過去を取り戻すことが。
いつか、きっと。
そうして僕は、定年したあと再就職して週四の勤めになってから、サイコメトラー養成講座をオンラインで受け、実習を終え、晴れて物と人の記憶を読めるようになったのである!!!
なお定年前は妻を幸せにするので忙しかったので講座を受ける暇などなかったが、まっとうな手法での調査は怠らなかったことをここに付記しておく。
話を聞いた妻は、今まで見たことのない表情になった。
深い困惑と哀切。
しまった、と思った。
僕は妻には過去が必要だと思っていた。
でも妻には、もう過去は必要なかったのかもしれない。
妻に、出会う前のことを取り戻してほしいと思っていたのは、僕のエゴだったのだ。
そりゃあそうだ。
62年。62年なくて過ごしていたものを、今更取り戻してどうなるものか。
僕は、あのとき妻に何かを頼まれたような気になっていた。でも実際は、当たり前だが、ただ電子工作のことを聞かれただけだったのだ。
何も、こんなことは、何も。
たちまち萎れた僕を哀れに思ったのか、それともよく考えたらサイコメトリーなどどうせインチキだと思ったのか、彼女は優しく微笑んで僕の手に触れ、言った。
「いいよ。
記憶を読んでも。
今更知ったところでどうなるわけでもないし、正直過去なんて必要ないし、逆にもしほんとうに読めるのだとしたら途方もなくこわいけど。
一度だけ、やってみてもいいよ。
あなたが傍にいてくれるなら」
サイコメトリーの師匠によると、僕の妻のようなケースの場合、発見時に着ていた服を肌に触れさせておくとより深く読めるとのことだったので、当時の制服が必要だと伝えたところ、
「いや、別に着る必要はなくて!」
遠ざかる妻を引き留めた。
「膝の上に載せているだけでもいいらしいから!」
妻は、発見時に身に着けていた制服の一そろいをクローゼットから出して畳み膝に乗せた。
「どうぞ」「あっ」
妻の体と服の重なりに手を触れた時、見えた。
見えてしまったのだ。
しばらくの間僕は、それを言葉にすることができなかった。
これからも、言葉にはせず、ただ、僕の心の深いところに閉じ込めておこうと思う。
「何が読めたの?」
「え?ええと、その、ごめん」
僕の狼狽でインチキへの疑いが確信へと変わったらしく、妻の声が怒気を帯びた。
「結局いくらかかったの?」
「あ、いや、記憶は読めなかったけど別のものは読めたよ!」
「何が?」
「その…こっ、こっ…、こつー…こつみつどが、ひくい、かな」
「骨密度ぉ?なんでそんなもの…」
いいかけて妻は口をつぐんだ。二人でしばらく黙り込んだ後、かろうじて妻が口を開いた。
「じゃあ、一緒にかかと落とし運動でもしようか。」
「ええ?かかと落とし?そんなに気に障った?ごめん謝る。避けられないからやめて!二次災害になるよ!」
妻は笑って言った。
「違う違う、足技じゃなくて、骨密度を高くする運動にもかかと落としっていうのがあるのよ。つま先立ちになってから弾みをつけるように地面にかかとを付けるのを繰り返すと、骨が刺激されて骨密度が高くなるの。あなたが読んだ通り骨密度が低いんだったら、やってみたほうがいいわね」
「いや!君は足が悪くないんだから…」
つい、被せるように言った。
「全然歩けるんだから、僕と一緒にもっといろいろなところにいこう!いろんなものを見て、いろんな料理を食べよう!僕と一緒に、もっともっと、うんと幸せになろう!そうしたら、かかと落とし運動なんて、きっと…必要ない…」
それからうつむいた。
「もう、受講の必要もなくなったから…もっと自由に…時間を…過ごせるから…」
ちなみに妻は叔母に引き取られてから格闘技を始めたのでかかと落としは割とシャレにならない。ならないんだよおおお!
それから僕は、調査会社を始めた。
妻の過去を探す過程で身に着けたまっとうな調査技術とサイコメトリー能力の両輪で、客を選べる程度の実績を着々と積み上げている。
妻は相変わらず私が骨密度しか(あるいは、すら?)読めないと思っているのか、毎回医師の診断結果を私に当てさせて面白がっている。
勿論僕には骨密度は読めない。
ただ、君が幸せなら、それでいいのだ。
終