即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

清方と金鈴社の画家たちー吉川霊華・結城素明・平福百穂・松岡映丘ー 於鏑木清方記念美術館

肉筆日本画を見るときは単眼鏡を持っていくとよろしい。うなじの毛筋やら着物に置かれた精妙な紋様の盛り上がりやら絹の生地への顔料の淡いにじみやらがよくわかるからだ。此度鎌倉にある鏑木清方記念美術館の鑑賞券を頂いたので美術鑑賞用の単眼鏡を携えて五月の鎌倉を訪ねた。この美術館の奥ゆかしい門構えは若い人の関心を引くのか着物姿の二人連れが立ち止って中を覗き込んでいるところに出くわした。展示品の数は少ないけれど落ち着いたよいところだよ、ことに庭の手入れが丹念で心地よいよ、そんなように心中で声をかけて先に入館した。入口のロッカーに手帳以外を預けてチケットを示し鉛筆を借りた。迷っていた二人連れは結局来ないようだった。今日は土曜日で、少し待てば学芸員さんの展示解説があるという。調べもしないで来た割に運がいい。作品を一通り眺めてから解説を待った。

今回の展覧会は鏑木清方が参加していた美術研究会『金鈴社』を主題としたものだ。会の参加前後の清方の作品と会員の作品を並べることでその研究会また会員が清方の作風にどのような影響を与えたかがおよそわかるような展示になっている。『金鈴社』は所謂官展に不平を覚えた絵描きの集まりで、呼びかけ人は雑誌記者の田口掬汀、それに結城素明鏑木清方吉川霊華平福百穂、松岡映丘という当時の中堅日本画家が応え、一年に一度発表会を開くのを第一としそのほかに人を呼んで勉強会を開いたり一人でも辞めたいと言い出したら解散するなどの決まりのもとに運営され、7年間の活動の後解散となった。学芸員さんの話によると、会以前の清方は人物画の背景の処理に悩んでいた、まず人物を大きく描きその後ろに風景を描くという全く特徴のない構成であった、しかし会に入ってからは会員が自然をそのままにとらえんとする風景画また南画や白描をよくしたことに影響され、風景を大きく人物はそれを構成する一部としまた淡彩や細い描線による表現を取り入れるようになった、そして最終的に清方の代表作である『朝涼』のような自然と人物が同等に融合した淡く繊細な絵画表現に到達したという。その清方の金鈴社以前として展示されていたのが『七夕』であった。いかにも清方らしい、柔らかい髪と袖と肌をした娘が七夕の乞巧奠という儀式を執り行っているところを大きく描いたものである。儀式を執り行っていると書くと大仰だが、天の川を映した盥の上で糸を針に通すと縫物が上手になるという習いに従う娘を描いたものであり、後ろには織姫への捧げものである着物やら琴やらが並べてあり右上には色紙を飾った笹が下がっている。本紙が大きくそこに人物が一杯に描いてあるものだからなかなかの迫力だが、実はこの作品の特筆すべきは米国の蒐集家が蔵しているものでもう二度と日本には来ないのであろうという点にある。軸は螺鈿で飾られておりずいぶん大事にされているようだ。しかし二目とみられないというのを除けば江戸の美人風俗画の域を出ないように思われそれほど心に触れるところはなかった。

『絵双紙屋の店』は金鈴社が立ち上がって以降の作である。清方が幼いころに親しんだ絵草紙屋を淡彩で描いたものであるが、この時点で清方自身を含む人物は店先を描いた風俗画の一部となっており、なるほど作風の変化が見てとれる。

そのあとは会員の作品が一点ずつ展示してある。

吉川麗華の『観音像』、ご尊父は儒学者で本人も様々な書物に親しんだ教養人であったという。観音像の薄物を透かしたなまめかしい肌などはなかなかであったが上に般若心経が書かれているあたりやはりどうしても名士の書斎あたりに飾ってありそうな端正である。

平福百穂の『夏山雨後』、この人は南画の手法を研究したという。淡彩の山に荒々しい岩肌が乾いた筆で掃かれている。一方手前の川の流水の表現は細筆で流麗且つ丁寧でいかにも美しい。手前がほとんど薄墨なのに遠くが緑にかすんでいるのも面白い。この絵は死後見つかって清方が鑑定し命名したのだそうだ。

結城素明の『聯珠画巻』、日本画に油彩の厚塗りを持ち込もうとしたとのことで確かに松の緑が分厚く塗られている。このような試みは面白いのかもしれないが、ものが巻物という時点で厚塗りは向いていないんではないか。くるくる巻いたりまた広げたりしているうちに割れてはがれて落ちるんではないか。絵具だって高かろうに、大体前人未到というのはその山が到達に足るものではない場合もあるのに喃。といって作品が悪いわけではなく、確かに狙い通り松の葉の生命力の分厚さを表しているように見える。しかしそれが見た人に与える印象は普通に塗った場合に比べても特段変わり映えしないのではないか。そんなことを思った。

金鈴社会員作として展示されていた中で一等好きだったのはやまと絵を研究していたという松岡映丘の『月』である。色を廃した流麗な線で百人一首みたような貴族の月見が描かれている。展示室の壁のはじっこのやや高いところに薄墨の白描の小品なぞをかけられたら全く以て見辛いのだが、そんなのを超して単眼鏡でその流麗を何度もなぞらずにいられなかった。しかもこの人の兄弟はみな優秀で、そのうちの一人はかの柳田國男であるという。議論はあろうがあの時代ひたすらに日本各地を渉猟して集めたもろもろが今の民俗学の礎となったことを考えるとこの作品にまで畏まりたくなる。

金鈴社に清方が出展した作品として『早春』という屏風があった。落ち着いた作品とするために人物も黄藤も画面下部に配し、背景もやけに渋い色合いだと思ったら裏箔であるという。婦人が土筆を摘んでいる、その風景を柔らかく描いた作品で、確かにこれを見ると自然は状況を説明するための道具立てではなく、婦人とともに一つの主題となっている。

帝展に出されたという『朝涼』は露の置かれた早朝の草むらを散歩する少女を描いている。少女は確かに肉体を持った人間でありながら早朝の化身であるかのように神々しい。本作は自然と人間の美しい融合であり、清方の画業の明白な到達点と思われる。

しかし私は同展の展示品の中ではもっと若い時期の『曲亭馬琴』の未亡人の難渋の表情やら『日高川道成寺』の狂おしい翔りが好きである。『曲亭馬琴』は烏合会の「難福」という題に対し描かれたもので、視力を失った曲亭馬琴が文字を知らない亡き息子の嫁に南総里見八犬伝を口述筆記させるという聞いただけで具合が悪くなるようなムツカシイ情景を描いたものである。曲亭馬琴の老賢人ぶりも好もしいが何よりいとおしいのは若い未亡人の困惑と諦めと詮方なき覚悟の表情である。こういう情に溢れた作品のしかも自由闊達な下絵を見ることができるというのは非常に喜ばしい。また『日高川道成寺』は例の道成寺のお嬢さんが渡し船に乗せてもらえないもんだから半ば蛇に変じて川を渡るその姿を描いたものだが、翔り立つような妄執とまなじりにこびりついた恋情が実に良い。これもまた下絵が残っていたのがありがたい代物である。他いくつか展示されていた小説挿絵の中で一等好きなのは『雛壇の下』である。一体どんな小説のどんな情景を描いたものなのかさっぱり見当がつかないが、柔らかいぼかしたような日本髪と首を傾げ覗き込むような婦人の表情が実に色っぽい。後は清方が金沢八景に別荘を持っていたころの日記の展示などがあった。

学芸員さんは金鈴社がこれまであまり取り上げられることがなかったといっていた。それはそうだろう。洋画に圧されていただろう当時の日本画壇、さらに官展の方針に不平を持った人々がとりあえず作品発表の場を確保するために雑誌記者の音頭で集った。そういう会とあれば贔屓目に見ても烏合的に思われるし七年間の活動の中でどれほどの交流があったのか展示からは読み取れずその後交流が続いたわけでもないとなれば立ち位置が不明瞭すぎて取り上げようもなかったのではないか。しかし一時期作品を発表する場を共有しただけでも確かに清方は会員の風景画に対する姿勢を学び自身の背景の処理への迷いから脱出し作品を自然と人物の融合に昇華させることができたのだ。

さて他の会員にとって果たしてこの会は清方ほど有意味であったのだろうか。

機会があればそのあたりの解題も見てみたいものだ。

 

鏑木清方記念美術館特別展紹介頁

 

ARTAgendAでの本展覧会作品紹介頁