即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

弥生美術館で高畠華宵展を見てきた

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高畠華宵 刺青 大正末~昭和初期 原画

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高畠華宵 そよかぜ 華宵便箋口絵原画 大正末~昭和初期 原画

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高畠華宵 支那町の侠女 少女画報昭和2年9月号挿絵原画

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高畠華宵 人魚 少女画報口絵 大正末~昭和初期 印刷

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高畠華宵 川端で 掲載誌不明 口絵原画 大正末~昭和初期

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高畠華宵 (仮)異国の女 華宵便箋表紙 日出づる国社 大正末~昭和初期 印刷

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高畠華宵 かげろふ 華宵便箋表紙原画 村田社 大正末~昭和初期 原画

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高畠華宵 中将鐙広告絵 大正末~昭和初期 印刷

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高畠華宵 支那服 華宵新作抒情美人画より 昭和6年 真珠社 印刷

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高畠華宵 内弟子を描く 大正期

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大野らふさんによる「真澄の青空」をイメージしたコーディネート

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高畠華宵 真澄の青空 華宵便箋表紙原画 大正末~昭和初期 原画

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高畠華宵 清きたより 華宵便箋表紙原画 昭和6年 原画

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高畠華宵 菊咲く頃 華宵便箋表紙原画 大正末~昭和初期 原画

谷崎潤一郎の卍に、夫人二人がやりとりした手紙の便箋についての記述があった。

やがて中から取り出された手紙の数々は、まるで千代紙のあらゆる種類がこぼれ出たかのようであった。なぜならそれらは悉くなまめかしいごく彩色の模様のある、木版刷りの封筒に入れられているのである。封筒の型は四つ折りにした婦人用のレターペーパーがやっと這入るほどに小さく、その表面に四度摺りもしくは五度摺りの竹久夢二風の美人画、月見草、すずらん、チューリップなどの模様が描かれてある。

展覧会に来て、あれはこういう便箋のことを指していたのだなと得心した。小説の連載は昭和3年から昭和5年なので時期もあう。

 

高畠華宵明治21年愛媛県宇和島市に八人兄弟の三人目次男坊として生まれた。生家の営んでいた生糸商を継がず明治35年には日本画家平井直水に弟子入り、明治36年には京都市美術学校工芸科に入学、学生代表としてセントルイス万国博覧会に写生を展示されるなど腕も高く評価されていたが明治37年に父が死去、一旦絵の道から離れることになる。しかし絵への思い断ちがたく美術学校の学費のために親戚の養子になろうとしたため兄が仕方なく学費を負担、復学を果たす。しかし友人宅で泰西名画集を見て西洋美術に心奪われた華宵は兄の苦労も知らずパリで洋画修行をしたいその前にアメリカに行きたいなどとたわけたことを抜かす。その後なんやかんやあって図案家・西洋画家・アイヌ考古学者の杉山寿栄男に出会い、中将湯の広告絵などをものしたあと、大正2年講談社と縁を得てからは雑誌の挿絵で大人気となり鎌倉稲村ケ崎に挿絵御殿を構えるまでとなる。その後講談社と画料でもめ実業の日本社に電撃移籍、その事件は「華宵事件」と語り継がれることとなった。戦時色が強くなるとともに雑誌文化も衰退、挿絵の仕事が減り華宵も不遇を託つ。内弟子を頼ってハワイに渡るも「衣食住に関わる雑事の世話をしてもらわなくては日常生活を送れなかったため」(題箋ママ)結局日本に送還される。その後またもや兄の世話になるが、昭和40年に開かれた「華宵名作回顧展」を通じて後に弥生美術館を開館することとなる鹿野弁護士に出会い、厚遇の内に亡くなった。

以上、展覧会の題箋からの華宵の人生の雑駁なまとめである。

 

結婚しない理由

私の好むのは、人間としての女ではなくて、美の所有者としての婦人です。

私のように美しいものの好きな人間が、どんな美人の妻を得たところが、その最愛の奥さんがだんだん年を加えて、一本づつ額にしわをたたみ、凋落して行くのを見ているのは堪えられぬことですし、といって、永久に若さと美しさを保つことの出来る方なぞはあるはずもないので、奥様を貰うことは棄権しているのです

高畠華宵「妻のない画房」『朝日』昭和4年7月号より抜粋)

 

同展の2階には、高畠華宵による「自分が女学生だったらどんな女学生になったろう」的な文章が散らしてあった。今の時代だったらぎりぎりだ。あの時代でもぎりぎりだろう。

 

さて実は私はこの展覧会でもしや目の当たりにできるのではないかと思っていたものがある。稲垣足穂の『少年愛の美学』にある「T画伯の自作コレクション」である。

 

大正の終わり頃、西巣鴨新田の私の住まいに近く、木立に囲まれて、たてに長い、塔のような三階建て木造館があった。そこの住人は独身であったが、なんでも三十を過ぎてから絵を習ったのに、現にみられるとおりの流行挿画家になったのだとの話であった。しかしこのT画伯の自作コレクションを見せてもらったという人の話から推察したところでは、本人は「少年姿」が描きたさのあまりに絵を習ったものらしかった。(中略)彼の彩色画群はつまり「少年愛百場面」なのである。若党とわかぎみの庭石の蔭の語らいとか、「月よりほかに知る者もなし」の各場景、不破万作が小笠原信濃守と籠の中での逢引とか、放課後の教室とか、土蔵の二階における番頭と丁稚とか、早朝の玄関先で新聞少年を抑え付けている時とか、あるいは向う鉢巻の左官の親方が、壁土をひっくり返し鏝を飛ばして、泣きわめく徒弟を梯子に縛り付けている処とか。(中略)

T画伯が好んで描く少年少女の相貌はーー向う鉢巻の暴行場面によっても察しられるようにーー号泣的で、ゆがめられた丹花的口元に特徴があった。それに肢態全体の細やかな筆致は紛れもない春画のそれで、この一種アンファンティールな淫蕩味が、大正末期の若い世代の好尚に投じたのだと思われる。私は当時、近くの大日原の一隅にあった『日の出』便箋から、毎日のように彼の絵のついた封筒やレターペーパーが積出されているのを眼にとめていた。

稲垣足穂少年愛の美学』より引用)

 

私は長くこのT画伯が高畠華宵であると思い込んでいたが、読み返してみると「三十から絵を習った」とある。さてそれでは足穂氏のいうT画伯と高畠華宵は全くの別人であったか。そうであれば冗談でもコレクションが展示されることはあるまい。

いずれにせよ。

同展覧会は、幼いころからひたすらに美を慕って様々な技法を模索し挿絵と便箋絵で一世を風靡した高畠華宵による繊細で妖艶な美少女美少年を思うさま賞玩できる素晴らしい展覧会であった。

そして。

私なぞには見る機会もないだろうが、そして大きなお世話だろうが、どこか温度と湿度がよく管理されているところで、誰かの眼に触れるまで、T画伯の自作コレクションが大切に保管されることを願っている。

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弥生美術館 高畠華宵