夜子どものお骨を居間に移動させる際、いつものようにそっと撫でて、途端急に恐ろしくなった。それはおそらく骨全般を恐ろしがる人が覚えるであろう恐怖と同種のものと思われた。私は生物学が好きで骨も進化の成果物として殊の外愛しているため、骨に恐怖を覚えたことはついぞなかった。
なぜ私は今お骨に恐ろしさを覚えたか。
己の心をしみじみ改めてみたところ、私の子ども、己が産み落とした子ども、乳を含ませた子ども、何くれと世話を焼いた子ども、言葉を交わした子ども、そのうち孫でも預けてくれるだろうかと思っていた子どものなれ果てた物体であるからと推察された。卵から芋虫へ、芋虫からさなぎへ、さなぎから蝶へ、蝶からなきがらへ変わり果てるよりも強力で容赦のない変容である。
どの髑髏も、どの骸骨も、常に誰かから産み落とされ養われた誰かのなれの果てなのだ。体温と柔らかい皮膚と感情と意思と思考を持った肉体の残滓だからだ。誰かにとっての誰かがこれほどに思い切った変容をすることに、人は驚き、畏怖し、それがしまいに恐怖になったのだろう。今は焼成するから過程はわからないが、九相図がそこここに見られたような古い時代であれば変容に対する恐怖はいかばかりであったろうか。
あそこにあるあのお骨は、誰かにとっての誰かだったのだ。
ここにあるこのお骨が、私にとっての子どもであったと同じように。
だから私は、あの子のお骨に触れる際、稀に…そうだな、二十回に一回くらいだろうか…いやもっと稀か…何しろ今日が初めてだったからな…取り返しのつかない変容への畏怖を覚えるのだ。
まぁそれはともかくとして、今もやっぱり骨格標本は頗る付きに好きである。生物とは、進化とは、まことに素晴らしいものであるな。