即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

スティーブン・B・ハード著 上京恵訳『学名の秘密 生き物はどのように名付けられるか』(原書房)の覚書 または命名ゴシップ集と種の命名の大切さについて

「生物の学名はリンネが考案した二名法によって名付けられる。二名法で用いられるのはラテン語である。なぜラテン語か?死んだ言語なので今後変化しないからである。ついでに言うとリンネは助平で植物のめしべとおしべの数で植物種を分類しつくそうとしたのみならずめしべとおしべを登場人物にしたちょっとエッチな詩もたくさん遺している」

これがこの本を読む前の学名に関する漠然とした知見であった。とにかく二つ!二つの単語だけで表そうとしたリンネはすごいの!という印象はあるものの、それ以上の知識はゼロである。

この本によれば、リンネ以前から生物の研究において種を特定するための命名は重要視されていたが、その際学名で特徴を説明することを求められていたため、ピカソの本名並みに長たらしい学名になることもままあったそうだ(トゲアリトゲナシトゲトゲを髣髴とさせるがあれよりもっと質が悪そうである)。リンネの二名法による種名では一語の属名と種小名が付けられることになったが、さらに重要なのは、種小名をその生物の特徴を説明することから解放したことであった。ついでに言うと三名法で名づけられた生物も少なくないが(例:ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ)、その三つ目の名前は変種や亜変種や品種を表している。この三つ目の名前は、ダーウィン種の起源以前の「生物は神が作りたもうたもので変化などしない」という概念から人が自由になったことを表している点で画期的である。

 この本によると二名法は5つの規約に従うことになっている。その規約の一つに、

名前の語根はラテン語でなくてもいい。しかしながら語根が決まったなら、接尾辞をつけてラテン語の文法に従って変化させ、ラテン語のように扱わねばならない。

というものがあると知って驚愕した。えええええラテン語っぽくすればいいだけなの?ラテン語は死んだ言語だからってどやってたあの頃の先生違ってんじゃん!誰だか忘れたけど!でもそりゃそうだよね!ラテン語縛りはきついしいつか尽きるよね!

後はまぁ、一つの種に二つの名前がついてたらどうなるのとか、分類そのものを間違っていた場合その属名の扱いはどうなるのとか、やや大変そうだったり大分大変そうだったりすることもあるが、そのあたりについては本書を読んでいただきたい。

命名において命名者はその特徴を説明するという義務から解放されたが、もちろんそれを選ぶこともできる。採取された地名からつけることもできるし、敬愛する誰かのために献名することもできる…この自由さが、ラテン語またはラテン語風の学名の一つ一つの中に、いやおうなしに物語性を孕ませることになる。

この本を読むと、種には、発見してその標本を研究施設に送った採集者、それをこれまでに記載されことのない新種として論文を書き発表した命名者の少なくとも二人が関わっていること、自分にちなんだ命名は禁止されてはいないがあまり推奨されてはいないこと(穏健な表現)、それでもなおやっちゃった人はいること、他でもないリンネソウ(Linnaea borealis)は二名法を創案したリンネ自身がそう名付けるよう画策した証拠がほの見えること、有名なアーティスト(デビット・ボウイフランク・ザッパなど)から命名された生物がいること、その貢献度の高さから多くの献名を受けた人がいること、命名権がオークションにかけられることがあることなど、博物館の標本の前に記載されているアルファベットで綴られた二つの単語の中に、ひとかたならぬ物語が包含されていたことを知ることができる。

中でも私が最も深く心を打たれたのは、「第一七章 マージョリー・コートニー=ラティマーと、時の深淵から現れた魚」の章である。こちらはあまりにも美しく素晴らしい物語なので、ぜひ各人で読んでいただきたい。生物学に携わった女性が、目の前で起こった一つ一つの出来事に最善を尽くし、その結果、ある生物に彼女にちなんだ種名が付けられた。たったそれだけの、本当に美しい、素晴らしい物語なのだ。

多分この本は、人生において必ず読むべきだと推奨される類の本ではない。しかしもしあなたが生物学が好きで、分類に関心を持ち、または博物館の題箋に書かれている二つのラテン語(っぽいアルファベットの綴り)に目を止めたことがあれば…、いや、実際はそれすら必要なく、人類が世界にどのように対峙してきたかに少しでも関心を持つ人であったならば、読むことを勧める。この本を読めば確実に、あの二つのラテン語(風)に対する関心と解像度が上がる。堅苦しい話はたぶんあなたが想像しているよりもはるかに少なく、命名についての極めて人間臭いエピソードが多いので、どちらかというと命名ゴシップ集として楽しむことができるだろう。

今も新種発見(命名?新種についての論文発表?)は稀にニュースになる。しかしニュースとして取り上げられるのは発見された種のほんのわずかで、それは思わず広報せずにいられないほどの特徴を持っていたり、既に知られつくしていた(と思われていた)分類群における発見であったり、それとも先に述べたように有名人にちなんだ命名であったり、マスコミが取り上げたくなるようなフックがついているものである。その裏で分類学者は、マスコミがあまり関心を持たないようなあまりにも多くの生物の標本について、形態や生態について研究したり遺伝子を解析したりして、それが新種であると特定するために多くの時間を費やしている。昨今よく言われる「生物の多様性」の基盤となるのはどのような生物種がどれだけ存在するかを把握することにあるが、それは種が特定されていなければそもそもお話が始まらないのだ。分類学は、そして新種の発見と命名は、とても大切な仕事なのだ。