即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

世界を解題するための5つの鍵の話 または、私の、私による、私が生きるための言葉の群れ

世界の鍵を探している。世界の鍵とは、ドラゴンクエストでいう最後の鍵のようなもので、目の前のものがなぜ今このようにあるのかを解題するのを容易にする考え方のうち極めて汎用性の高いものを指す。

生物については環境淘汰と性淘汰という考え方が非常に有用である。

なんであれ生物は環境によって淘汰される。なぜ生物がそのようにあるのか、なぜそのような形でそのような性質であるのか、又はなぜその機能があり又はなぜその機能がないのか。それはその生物の置かれた環境から受けた淘汰圧の結果である。そういう考え方で解題すると大体腑に落ちる。ただ環境淘汰のみではおそらく相当効率的でつまらない形態性質に収斂しそうなところ、性淘汰という実に素晴らしい仕掛けが働いて生物界を魔的に多様たらしめている。雄の孔雀の羽をあのような華美に導くのは雌の孔雀の選好性である。よく考えなくても淘汰圧が余分にかかるだろうに、その淘汰圧をはねのけるようにして過分な特質が加味される。環境淘汰で解題しきれない生物の形態性質は性淘汰で粗々解題できる。

非生物含むあらゆる世界のありようを解題するために非常に有用な考え方が、対称性の破れ、自己組織化、創発である。

宇宙はビッグバンに始まるというのが通説であるが、ではそのビッグバンの前はどのような世界であったか。考えることに意味はないというのが私の粗末な脳で把握している現在の科学界の回答である。私は長くその回答が腑に落ちず折に触れ懐から出して掌でもてあそぶように検討していたが、つまりビッグバン以前は何一つ測定可能な状態で存在せず、そのため科学的に検討することが不可能であるという理解に先日ようようたどり着いた。定性的にも定量的にも全く均一であったから測定ができず、それゆえに思考の手掛かりがないというのが始まりの前の宇宙に対しなしうる描写だったのではないか。

その均一が破れビッグバンが起こった。全てが均一であったところにほころびまたは裂け目ができ、そこから不均一が波打つように広がった。しかしもとは均一で静謐に整っていたものだから、その本質に従順に不均一から理に則った構造が絶え間なく構築されようとする。それが自己組織化である。構造が構築されるともとの性質を超えた新しい性質が創発する。その繰り返しで、量子から原子が構築され、原子から分子が構築され、分子から物体が構築され、物体から宇宙的構造が構築され、宇宙から生物が抽出された。

エントロピーは常に増大するというがそれを縮小する系はいくらでもある。なぜ結晶はあのように美しく整列するのか。なぜ生物はDNAを設計図として周囲から懸命に材料を集めて己に似たものを再構築するのか。もとからそのようにあるからだ。対称性が破れる前の宇宙は元来緻密に整っており、それが世の全ての本質であるからだ。世界は散らかっていかない。世界は解体されたままにはならない。濃度勾配から自己組織化が始まり新しい性質が創発する。それは宇宙が始まる前から決まっていたことで、そしてこの宇宙がいつかまた均一で測定不能な静謐に還ったとしても、また次の宇宙が始まるであろう理屈だ。

私は多くの賢人が書いた優れた本を少なからぬ冊数読んで上のような考え方にたどり着いた。私はこの5つの鍵の汎用性に自信を持っている。これから同じ程度の汎用性を持つ考え方を新たに手に入れることができるかはわからない。もし見つけることができたらそれはとても喜ばしいことだろう。

私は世間で勉強と呼ばれている行為が好きだ。新しい分野を触り、古典を改め、引用文献リストのあるソリッドな学術本を読んで細部に神が宿りつつ汎用性のある考え方を味わい咀嚼し嚥下するのが大好きだ。もともと一等好きだったのは反証可能な科学だ。いつでも油断なくひっくり返されることを覚悟しつつ少しずつほんの少しずつ慎重に世界を手繰り寄せようとしている科学が大好きだ。今の仕事を始めてこればかりは一生わかりあえないだろうと思っていた法律にも相当親しむことができた。仕事を始める前は法律は誰かから与えられるもので遵守すべきものであった。省庁に籍を置いてからは法律は検討し起案し公布するものとなった。今の仕事についてからは法律は道具として人を扶けるためにまた時には人を改めるために用立てるものとなった。経済もやはり一生理解しあえない輩だと思っていた。しかしふと図書館で手に取ったノーベル経済学賞の解説本から、経済学とは国を運営する王に捧げるために始められた学問であり、今はものすごく頭のいい群盲が象を一心不乱に撫でまわってなんとか象の骨格やら筋肉の付き加減やら動き方やら性質やらを検討可能な程度に抽出して象の動き方を予測しようまたは象を思うように導こうと躍起になっているところだという程度のことを理解した。己の心とは環境淘汰と性淘汰の篩にかけた生存戦略を雑多に継ぎ接いだ集合体でありそれゆえにままならぬものであるということを理解した。歴史はいまだにわからない。あまりにも要素が多く、残された記録は断片的で、後人が好き勝手に解釈しすぎていて、何が何だかさっぱりだ。しかし今なぜこの制度がこのようにあるかを手繰ろうとするとき、決まって私はいつかの誰かの思惑に行き当たる。私にとって歴史とは英雄譚ではなく、誰かが誰かに何かを示すために、または誰かが誰かから何かを隠すために、今後も濫造され続けるであろうテキスト群である。

私はたくさんの本を読んでそこから拾い集めた材料で世界を写した天蓋を作ろうとしている。それは私が理解できた概念のみで構築しているため粗密が極めて不均衡である。しかし重要なのは私が自分で集めた材料のみで構築されているという点だ。粗末であっても私が作った私のためだけの知の天蓋だ。私はおそらくこれからしばらく生きるだろうが、その余生をこの天蓋の充実に使おうと思う。私は世界を知りたい。これまでそう願った賢人の誰よりもあらゆる知識にアクセスしやすい時代に私は生きている。写本しかなかったころ、印刷本はあっても選ばれた人しか閲覧できなかったころ、ネットのなかったころ。私は今望めば最先端の研究室の成果に触れることができる。学生の頃は自分の持っている辞書の語彙の上限が読める英語の上限だった。科学のエッセイ一つ読むにしても大学図書館に行って専門辞書を繰らねばならなかったあの頃の私よ、今私はマウスオーバー辞書とDeepLでSCIENCEの好きな記事を食べているぞ。無課金なのでブラウザ2つ使って月に6本までしか食べられないけれど。

脳髄に様々な上質な知識を詰め込めるだけ詰め込んでいつでも過冷却された水のように、それは新しい何かに触れる/触れられると追い立てられるように恋焦がれるように駆け上がるように自己組織化する、私はその瞬間を愛する、以前丁寧に並べ立てておいたドミノが突如整然と倒れ新しい地平が開け立ち上がってくる、そしてその向こうにはまだ倒れるに至らない数多のドミノが無辺に広がっている、私はこの果てのない濃密な世界を愛している、読んでも読みつくせない解題しても解題しきれない探っても探りつくせないこの美しい世界を愛している、数多の賢人がひたぶるに紡いだ無限の言葉の群れを愛している、だから私も世界の片隅にこの文章を紡いで密やかに置いておこうと思う。