私は一人行動に偏りがちで、学校、親にも散々そのように言われつけていたのだが、最近
(もしかして一人行動に偏りがちなのは幼い頃からの親のかかわり方の成果ではないか)
という知見を得たので記録する。
うちの親は善意の人であるが、子育てにおいては独断専行且つ上意下達であった。
子どもは大人よりも知識判断力が乏しいので意見を聞く必要はないと考えていたのであろう。私は家庭において何かを決めるにあたって、それが自分自身にかかわることであったとしてもほぼ意見を聞かれることなく、また稀に恐る恐る意見を伝えてもそれが親の判断に優先されることなく育った。このようなかかわり方をなされている子どもが意見を伝える時というのはどうしてもその決定に承服できないときであるが、「あなたがそんな風に考えているはずはない、何故ならこちらはこんなにあなたのことを思ってこのように決めたからだ」と、意見どころか自分の自由意思の存在まで否定される結果となるため、意見を伝えることの有用性を体感することはなかった。
さらに、なにがしかの通達がなされ、それにこちらの心をならし従おうと努力しても、親の都合でそれらの決定がいとも容易く覆されることが多かった。
さらに、親になにがしかの頼まれごとをされ、こちらで腐心してその準備をしても、それもまた容易く「必要なくなった」「頼んだことを忘れていてこちらで進めていた」などの理由で打ち捨てられる場合が多かった。
さらにさらにだ、その頼まれごとの際にもたらされた情報に誤りや不足が多く、十全に準備した直前に組み直す必要が出てくることが多かった。ついでに言うとそれら不足や誤りは自覚なくなされるため謝罪は非常に軽い。
このようなかかわり方を人生の拠点たる家庭において長期間に渡ってなされた場合、誰かと共同でことをなすこと、もっというと、自分の考えていることが世界に影響を及ぼしうるということ自体に非常に根深く拭い難い不信を覚え、一人行動に偏りがちになってもせんないように思われる。
なので、大人になって、人と関わるようになって、
- 決定・依頼事項を覆されない
- 必要な情報があらかじめ十分にもたらされそれに間違いがない
- 上記をやむなく修正する場合丁寧に謝罪される
だけで吃驚するくらいの有難さを覚える。どうですか皆さん、私の喜びはお安くてお得ですよー。