私はどうやっても祈りという言葉営みを好きになれないようだ。
祈ることしかできないというが、日常の一つ一つを丁寧に営むとか、自分を大切にするとか、誰かを大切にするとか、なんかこう、あるだろう!
自分はそのことについては何もできないという事実を受け止めて、自分の無力さを思い知ることが必要な時もあるんじゃないのか!
何かに付託するなんてのは、私には、私には向いてないんだ!
私はお寺も神社も好きだ。人々が心を寄せている尊いものに手を合わせて心を平らかにするのが好きだ。宗教施設に行けば慣習を大切に礼と心を尽くす。大方の宗教は哲学として非常に有用であることも承知している。でも、自分には何もできないという事態を前にして、それでも祈るということができない人間だ。情報を集め、戦略を立て、効果が見込める方策を見出せたとき初めて私は私を使用する。
それまでは無力を味わいつくしてやる。
祈ってなぞやるものか。
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私は母から祈りという言葉が出ると常に強く反発します。最初は辛抱して聞いていますが6回くらい繰り返されるともうだめです。おそらくそれは母が私をキリスト教の型にはめようと執心しすぎたために私自身が顧みられることが少なかったという私の中の記録に由来するのでしょう。お母さん、幼い頃の私はね、あなたが信じる神様らへんの基準に私が適合するように叱りつけたりお祈りしたりするその時間を使って、私が何を考え、何を感じているのかを知ってほしかったのだと思いますよ。おかげで娘はバチクソの無神論者に育ちあがりました。
人が大切に思っている・しているものを批判非難するような人間には育っていません。そんなことをしても誰も幸せにならないことはわかっているので口を噤んでその場を去ります。
ただ、神様に心を向ける前に、そこにいる人に心を向けてください。
何か事案が起こったときに、祈るが選択肢にないのは本当です。今回驚いたことに私は一度も神仏に祈りませんでした。頭の中には事実と確率と次の手しか存在しません。何が起こっているのか、何をなしうるのか、鈍足ながら情報を収集し、自分にできること・できないことを仕分けながら有効な手を模索しています。
だってこんなかけがえのない案件、他に任せられないじゃないですか。
そういう風に生まれついたのか、そういう風に育ってしまったのか、わからないけど私はそういう人間です。