幕末から明治にかけて開国を迎えた日本は、首都東京と国防の要諦である横須賀を守るため、沿岸に24の砲台を築いた。しかし当時の大砲の射程距離はせいぜい3キロであり、沿岸の砲台のみでは東京湾全体を防御しきれなかった。そこで明治政府は、東京湾の入り口に、三つの人工島を築き要塞とすることにした。それが、第一、第二、第三海堡である。この日本初の海上土木工事は、全て人力で、土台となる捨て石を一つ一つ海底に沈めることから始められた。
第一海堡は明治14年着工同23年竣工、建設期間9年、海底の深さは最深で4メートル60センチ。第二海堡は明治22年着工大正3年竣工、建設期間25年、海底の深さは最深で12メートル。第三海堡は明治22年着工大正10年竣工、建設期間29年、海底の深さは最深で39メートル。しかし大正12年の関東大震災で、水深の浅かった第一海堡にはそれほどの被害はなかったものの、第二海堡は中被害、第三海堡は大被害を受けた。そしてそのころには大砲の性能が上がり射程距離が伸びていたため、第二、第三海堡は修復されず防衛拠点からは外された。その後太平洋戦争を前に、帝国海軍が第二海堡を陸軍から借用し、高角砲や水中音響訓練処、水雷衛所などを設けたが、敗戦を迎え第二海堡の設備は全て撤去された。第三海堡は浦賀水道海路に接しており、付近で座礁含む海難事故が多発したため、平成19年から7年をかけて島そのものの撤去作業が行われた。一方の第二海堡は、平成18年から護岸整備工事が行われ、平成30年には国交省が観光ツアーを認可、翌平成31年からは民間観光業者によって上陸ツアーが開催されるようになった。今回筆者が参加したのは、YOKOSUKA軍港巡りを主催する株式会社トライアングルによる第二海堡上陸クルーズであるヒャッホーイ!!!
第二海堡には日陰がないので各自熱中症対策を厳重にとの事前案内を受け、日焼け防止のキャップとラッシュガードを着用、ハッカスプレー、凍らせた煎茶、水筒に入れた冷たい煎茶、そして第二海堡上陸ツーリズム推進協議会への誓約書を装備して8:30に三笠ターミナルに到着した。8:45に受け付け開始、5000円を払い、第二海堡のパンフレットとチケットを受け取る。上船したのはシーフレンド1号、1階に応接室のようなちょっとリッチな空間があり、2階前方席からはパノラマビューを楽しめる小型船舶である。
上船すると「第二海堡上陸記念」と書かれたミネラルウォーターを渡された。ありがとうございます。
好天に恵まれまして。
うっすらと見える富士山。
遠くに見えてくる目的地、第二海堡。
着港&係留スタンバイ。
着岸中のシーフレンド1号。
上陸後は3班に分かれガイドさんの指示に従うことになる。まずイヤホン付の無線受信機を渡され片耳に装着する。第二海堡の歴史等の説明を受けた後、ガイドさんに従い島内を見学した。道中やぶ漕ぎもあるため、歩きやすい靴と皮膚を守る長ズボンなどの装備をお勧めする。
高角砲の台座。
監視カメラと太陽光発電機。
灯台を臨む。
中央砲塔
砲台跡に建つ灯台。
中央砲塔の土台は砂利交じりのコンクリである。
地震で崩れ落ちた弾薬庫(だったと思う。ちょっと自信がない)。
桜紋のある煉瓦。
新たに発掘された中枢施設。
これ掩蔽壕でええんかいな…
日本初の防波堤。
な…なんだっけこれ…識者の意見求む。
右翼北側掩蔽壕。
の、電線を引いた跡。
当時の船着き場。
北側着船場前倉庫。
およそ一時間程度で見学は終わり、再度上船し帰路についた。
自動車運搬船に遭遇。
帰ってきたぜ三笠!
その後は魚籃亭で元祖よこすか海軍カレーを頂いた。非常にうまい。スパイシーで旨味がありしかし辛くない。うちの第二子は辛いカレーが苦手なのだが、屹度こういうのが食べたいんだろうなぁと思った。レシピを参照して今度作ってやろう。
魚籃亭がアズールレーンの聖地であったことに驚愕したのはまた別のお話。
お土産にはさかくら総本家の海軍羊羹を買った。実際に海軍に納めており、そのころの長期保存できるレシピで再現したという期待の逸品。神棚に上げておくと砂糖が浮き出して表面がしゃりしゃりしてうまいそうな。すっごいテンションの高い店員さんがすっごい面白そうに、ビニール製の手提げを示し、「わざわざ海軍御用達なんて書いたビニール袋作っちゃったのよ! 当時こんなビニールなんてあるわけないのにねーウフフ! 」と説明してくれた。もったいなくてまだ食べてない。開けたら写真アップする予定。店に入るなり店員さんにハイスクール・フリートのコラボ商品の説明を生き生きと受け推しキャラを聞かれたのは内緒だ。さらにその圧に狼狽え「スイマセン自分第二海堡のツアーに参加しに来ただけなので」とオタクを否定したのは内緒だ。ゴメンナサイ秋葉とか好きですゴメンナサイ。
以上、大変充実した第二海堡上陸見学クルーズであった。
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