この記事でわかること
横浜ユーラシア文化館設立経緯、イカス展示品紹介、古代銅鏡の色の変化と11-12世紀イラン陶器の掻き落とし技法についての素人考察。
横浜ユーラシア文化館とは
横浜ユーラシア文化館は、東洋学者江上波夫氏から横浜市に寄贈されたユーラシアの諸文化にかかる資料を中心に展示している博物館である。寄贈された資料は約2500点、書籍は約2万000冊。
江上波夫氏は1906年に下関に生まれ1930年に東京帝国大学文学部東洋史学科卒業、その後東方文化学院、東京大学、札幌大学、上智大学などで研究を続け、古代オリエント博物館・野外民族博物館リトルワールドの館長を歴任、その後文化勲章を受章した泰斗である。(博物館の解説文パネル抄)
ビルのワンフロアなので展示は小規模であるが、入場料200円、みなとみらい線「日本大通り駅」3番出口のあるビルの2階と異常に立地が良いので、散策のついでにユーラシアの世界史資料的遺物に気安く触れられる有難いスポットである。
おススメ展示品
女性祈念者像(シュメール時代)
というわけでシュメール人。石像の目が異様にでかいことと言語が独立してるせいで宇宙人扱いされがちなあの人たちである。

ウワーマジだ! 目でかいよ! 題箋によると、紀元前第三千年紀中頃、シュメール初期王朝時代3期、南イラクから出土したもの。奉納者に代わって常に祈りを捧げるよう神殿に置かれた祈念像とのこと。
塑像頭部

こちらはみんな大好き美形しかないガンダーラ美術。ヘレニズム文化の影響を受けギリシア・ローマ風味なところがポイント。2世紀、アフガニスタン周辺より出土。
紐装飾ガラス瓶

4世紀前半、シリア・パレスチナより出土。ガラス独特のマーブル感が大変よい。
内行花文鏡・古代銅鏡の色の変化についての素人考察

紀元前2-後2世紀、漢時代、中国より出土。
さて銅鏡は銅でできているため本来であれば10円玉みたいな色をしているのではないか、この鏡の緑は緑青であることはわかるが何故地が黒に見えるのか。調べたところ
鏡の研磨には古くはカタバミやザクロが用いられた。含まれているシュウ酸などによって曇りの原因となる汚れが取り除かれ、輝きが蘇った。元禄頃からは、水銀に錫の粉末を混ぜてアマルガムを作り、これに梅酢を加えて砥ぐようになった。クエン酸で表面の汚れが除去され、そこに錫アマルガムが付着することでメッキ状態になり、美しい鏡面が得られた。
なお、今日博物館等でみる銅鏡は緑色で鏡として利用できないが、これは長い年月の間に酸化して緑青が形成されたからであり、作られた当時の銅鏡の反射面は白銀色ないし黄金色の金属光沢を呈していた。
緑青はあたり。しかし果たして漢の時代から錫が使われていたのか。
地金の色。ふつう、戦国や漢鏡、唐鏡の肌は銀白色を呈す。が、五代以降の鏡は鉛色や真鍮色(黄銅色)、あるいは白銅色である。仿漢、仿唐鏡も同様である。これは、銅鏡の成分比率に由来する。『図説 中国古代銅鏡史』は梅原末治の考察に拠って、宋代およびそれ以降は合金比率が徐々に変化し、宋鏡は含錫量が減少し、含鉛量が増加、亜鉛の比率も高くなることがわかる。と、述べる。ちなみに本報告で用いた真鍮色であるが、真鍮は銅と亜鉛の合金で、黄銅とも云う。また、白銅色の白銅は銅とニッケルの合金であるが、ここの場合は黄味の強い黄銅色に対して白味の強い銅色を指す。(小林公明「木村武山コレクションの銅鏡調査報告」164-165頁より引用)
この報告からすると漢の時代も錫が使われており製造当初は銀白であった模様。ではそれがなぜ黒に緑が入ったように見えるのか。
新品の銅は、美しい赤褐色をしています。しかし、銅がいつまでもこの赤褐色の状態を保っているわけではありません。耐食性や加工性に優れるなど、多くの場面で活躍してくれる銅ですが、酸化によって変色が発生しやすいのも銅の特徴です。
銅の酸化が進むと、色は以下のように変化していきます。
赤褐色 → 褐色 → 暗褐色 → 黒褐色 → 緑青色
赤褐色だけでなく、緑青色に変色した銅も見た目の美しさから人気が高く、建物の屋根やモニュメントに多く使われています。大阪城やアメリカのニューヨークにある自由の女神などは、その代表的な例と言えるでしょう。(中略)
銅は時間とともに変色していくものと解説しましたが、ではなぜ変色は起きるのでしょうか。
銅の変色には、「錆(さび)」が大きく関与しています。錆とは、金属の表面にある原子が酸素や水分などと触れ合うことで生成される腐食物のこと。銅が水分内にある溶存酸素などに触れると、銅の表面には酸化第一銅が生成されます。この酸化第一銅がいわゆる「銅錆」で、見た目は主に赤褐色です。この酸化第一銅が酸化性の強い環境に置かれていると、徐々に黒ずんでいき、黒褐色に見える酸化第二銅が生成されます。
この酸化第一銅に酸素・亜硫酸ガス・水などが反応すると、塩基性硫酸銅が銅の表面に発生し、長い年月をかけて今度は緑青色に変化します。また、二酸化炭素や遊離炭酸が反応して塩基性炭酸銅が作られた場合にも、同じように緑青色となることが分かっています。こうしてできた銅錆が「緑青(ろくしょう)」です。
錫の合金なので上記の過程をそのまま経るかはわからないが、黒に緑の斑が入ったようになっているのは銅の酸化過程の最終段階であることはかろうじて理解できた。
彩陶鉢

紀元前3000年頃、馬家窯文化、中国青海または甘粛より出土。瀬戸の馬の目皿の絵付けに影響与えてそう(小並感)。
緑釉掻落文鉢・11-12世紀イラン陶器掻き落とし技法についての素人考察

11-12世紀、イラン北西部ガルス地方より出土。展示品の中で一番好きなのがこの鉢。こちら欠けたところを見るとどうみても白っぽい胎土である。しかし掻き落としで露出した地は黒である。どうやって作っているのかと思い調べたところ、中国の作陶に
全体に白化粧を施し、その上から鉄絵具を全面に流しかけて白地・黒地の二層からなる下地を作る。次に文様の部分の鉄絵具、すなわち黒地を掻き落とす。白地黒掻落と呼ばれる技法である。その後、透明釉を全体に薄くかけて焼成し、さらに緑釉をかけてもう一度低火度で焼き上げている。
という技法があることがわかった。とするとこの鉢は最初に白化粧を施し、次に鉄絵具をかけてから紋様部分を掻き落とし、焼成してからもう一度黒釉をかけさらに焼き上げているのではないかと思ったが素人考察。更にちみちみ調べていたら11-12世紀セルジュック朝陶器のうち、クルディスターンのガルス地方で生産された掻き落とし文陶器がガブリ手と呼ばれたことまで辿れたがやはり細かい製法はわからん。
鳥型石製品

題箋には「鳥型石製品」としかないが英語では"Stone Sculpture with Intaglios"とある。つまりハンコのようだ。それはともかくとしてカワイイ。やっぱりよく使うものはかわいくしたい。わかるー。
青銅製こぶ牛

紀元前代1千年紀、イラン西北部より出土。かわいいと思い写真を撮ったら横浜ユーラシア文化館のキャラクター「こぶちゃん」のモデルだった。そういやぁこないゴブウシは東京黎明アートルームでも特集されてたし古代人気高ぇな、と思い調べたところ、
コブウシは耐暑性があり、熱帯性の病気や害虫に対する抵抗力が強いため、家畜化された南アジアから、東南アジア・西アジア・アフリカなどの高温地域に導入された。(中略)牛は、古くはインダス文明の担い手、その後はバラモン教やヒンドゥー教を始めとするインド発祥の諸宗教の信仰者に神聖視され続けており、とりわけインドの人々にとって「牛」と言えば第一に瘤牛であった。(Wikipediaより抜粋)
とのこと。あー、そういやなんかインドにいる牛ホルスタインやジャージーじゃないわー。
円筒印章 藁のストローでビールを飲む二人の人物

あとは円筒印章! モチーフがいい。古代メソポタミアなのだろうが題箋なかったからよくわからん。尚メソポタミアのビールは下記のようなものだそうだ。
ビールのルーツとされる「シカル」の造り方については、発掘された粘土板の記録から、おおよそのことが判明しています。
その記録によると、大麦を発芽させた麦芽を乾燥し、そこに古代種の小麦であるエンマーコムギを混ぜて「バッピル」と呼ばれる固いパンを焼き上げます。この「バッピル」を砕いて湯で溶き、野生の酵母を使って自然発酵させたものが「シカル」です。
この際、「バッピル」の焦がし方や麦の配合を変えたり、各種スパイスや季節の果実などを加えたりすることで、さまざまな種類の「シカル」を造っていたようです。「シカル」の飲み方ですが、現在のようにグラスやカップに注いで飲むのではなく、樽から直接ストローで飲んでいたようです。
というのも、当時はろ過技術が発達していなくて、固形物や不純物が多く混じっていたので、ストローでそれらを取り除きながら飲んでいたようです。また、メソポタミアは現代のイラクに位置し、夏場はかなり高温となるため、「シカル」は腐敗しないよう、造ってからすぐに飲んでいたようです。
他ユーラシアの衣装などの展示もあった。
というわけで、規模は小さいが様々な世界史資料集的遺物が見られる博物館、横浜散策のスキマにドゾー。
ちょい関連のある三鷹の中近東文化センターの記事はこちら