即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

希死念慮について

子どもの頃、「あなたがそんな風に思うはずはないのよ」と母に何度も諭された。私がなにがしかの不服を表すると、母は決まってそういうのだった。母は敬虔な、時には過激なほどに従順なキリスト教徒だったので、私が置かれた環境があらゆる面で豊かに恵まれて見え、それに対して不服を表する私は、たぶん、針の穴を通ろうとする駱駝よりも驕り高ぶって見えたのだろう。

母の言葉は今も私の心に堅牢に根を張っている。そのあまり、私はそれが子供にかけるにはふさわしくない言葉だということに、つい先日まで気づかなかった。

職場で上司に、もっと相手の心に寄り添って話をしてみては、というようなことを言われた。私は小賢しい質なので、おっしゃることはわかりますが、知識や手法を正確に伝える方が適切と思われます、と返した。上司は、少し寂しそうに、あなたも誰かに自分の心をわかってほしいと思うことがあるでしょう、と言った。その時私は初めて、自分が、ずっとながいあいだ、誰かに自分の心が理解されること、誰かが自分の心をわかろうとすることがあるなどとは思いもせずに生きてきたことに気づいた。そんな風に自分が生きてきてしまったこと、そうしてそれにいまさらながら気づいてしまったことに狼狽えながら、上司に向かって、私は育ちのために人に自分の心をわかってほしいと思ったことがないのです、でもそれが他に対して必要であるならそのように努めます、と返した。そうして私は、世の中の人は、他の人に自分の心を知ってもらいたいと思って生きているのだということを知った。

しかし改めて自分はどうかと考えてみると、そんな希望や期待を持つこと自体が、とてもおこがましい、身の丈に合わない、相応しくない、望むさえ許されないことのように思われてならなかった。そうしてたぶん、そんな風に思うようになったきっかけというのは、冒頭の母の言葉だった。

母はたぶん、それとは知らず、母の思う通りの心を私が持たなかったために私の心のありようを認めなかった。私はたぶん、それとは知らず、母に私の心のありようを否認された。私の心は自由であってよかった。私は私の心をもっと守ってやるべきだった。私は私の心を誰かが踏みに来たならば打ち倒してよかった。しかし私の心は理想を尊ぶ母によって幼いうちにどこかに遣られてしまい見えなくなって随分久しい。

この柔らかい喪失が、私に静かに寄り添い続ける希死念慮の生まれたところなのだろう。

母の思うような心を持たない私を母は認めなかった。だのにどうして私はあるのか。私はなくてもよいのではないか。

それは、強い感情に基づいた叫ぶような絶望からくるものではなく、ものをあるべきところに戻すような、夕刻に子どもが家に帰るような、なぜこの家はさかさまに建っているのだ、なぜ滝の水が昇っているのだ、そういう、不自然を超えた反自然を、自分自身が存在することに感じていたための、物理法則のように素直な帰結であった。

そうと悟ったとたん、私には急に希死念慮が、いとおしく、なつかしくなった。

私の希死念慮は、一緒にいなくなってくれると思っていた私に繰り延べ繰り延べつれなくされて、ずっと寂しい心持でいただろう。ずいぶん長く待ったのに、まだ待たせるかという気持ちでいるから、ふとしたときについ抱きすくめられそうになってしまうのだ。だから私は、私の希死念慮を、古くから同居している友達のように、大切にもてなして死ぬまで一緒にいることにした。暖炉の側に彼の席を設け、温かいご飯を一緒に食べて、彼のための寝床と枕をふかふかに整えてやって、灯りを消してお休みというのだ。そうやって毎日を過ごし、一緒に老いていつか死ぬのだ。穏やかに長い人生の終わりを迎えるまで、ただ側にいておくれ、希死念慮よ。