即興厨房

大船市場で野菜を大量に買い込んでええ感じのお総菜を一週間分作ってはブログに記録する人です。器は骨董屋でこつこつ集めたぐい飲みやお猪口です。美術展、本、たまの旅行も記事にします。好きな動物はチー付与のどんぐりです。

大津絵とブンリ派 またはフェットゥチーネとミックスジュース

大学の時分に大津絵を主題にした揃いの酒器を手に入れて以来、大津絵には相応の思い入れがある。東京ステーションギャラリーで大津絵の展覧会を開催すると言うので呼ばれたような気持になって行ってきた。展覧会の惹句が「欲しい!欲しい!欲しい!」となっており、だれがそんなに欲しがったのか、江戸の旅人かと思ったら、後世の文人の蒐集家連が欲しがったという文脈の惹句であった。展示物も、あの頃勃興した民芸がらみの文人の蒐集品という視座で分類されており、なるほど大津という地域くらいは定まっているもののいつだれが描いたのかどうにも辿りえない土産絵の整理方法としては至極道理にかなっている。文人の相関図まで資料として展示されているのは学芸員の方の労作であり、柳宗悦とあまり仲がよろしくなかった所有者として魯山人がぽつりとあげられているにはなんだか却ってほのぼのした。

大津絵はもとより大津の土産であったというが、大津というのはそんなに人が参集するような観光地であったのか。見当もつかないことに我ながら驚いて慌てて調べたところ東海道に大津宿があり、もともとはそのあたりで地産地消仏画として作られていたものが旅人に人気が出るにつれ様々な画題で描かれるようになったものだという。なるほど展示物の画題に阿弥陀仏やら青面金剛やら十三仏やらはたまた塔やら立花やらがあって壁にかけて拝んだりするためのものであったことが類推される。しかしそれよりよほど遺っているのが鬼の念仏やら座頭やら外法の梯子剃りやらの諧謔みのある絵や藤娘やら鷹匠などグッドルッキングピーポーのピンナップ的な意味合いを持つであろう類の絵で、これは仏画は実用に耐えかねて傷んで後世に遺り損ねたがピンナップは常に壁に飾られるものでもなくしまいこまれていたから保存がよかったのではないかと素人類推をした。量産のための工夫として、紙に泥絵の具の黄土を下地として塗ったところに、版木・ステンシルであたりを刷って、墨、丹、緑青、黄土、茶、胡粉で仕上げるという方法をとっていたようである(このあたり実はメモが汚くて読めないのでネットで調べた情報で補っている)。何しろ泥絵の具である、しまうときには巻き飾るときには解くであろうからやはり剥離がひどいものがある。その一方で極端に保存の良いものがあり、そういうものはきっと平置きで大事に保存されていたのだろうなぁとうれしくなる。大津絵の、特に仏画を主題にしたものには描き表装が施されているが、それ以外のものは特段の仕立てなく売られていたわけで、そうなると今回の展覧会は大津絵と共に蒐集家の趣味の表装の腕比べでもある。泥絵の具にふさわしい渋い表装を施されているもの、帯地と見まごう厚物で仕立てたもの、描き表装を傷めぬよう大事に竹で額装したものなどさまざまあるうちで、私が恐れ入ったのはⅢ-39の若衆である。塗りの額といい、表装の色合いと言い、恐ろしいほどに絵と調和し引き立てている。もしお越しになったらよくご覧になるといい。民芸の絵付けによくあることだが、模倣を重ねているうちにか、それとも手癖でそうなるのか、もともとはあった要素が失われたり極度に簡略化していることがある。今回も、鬼の念仏で背負っていたはずの傘が失われたり、大黒の担いでいる七宝袋に描かれるべき宝珠が黒丸になっていたり、なかなかに味わい深かった。一方で優れた描き手がものしたであろう鷹、藤娘、若衆などは極端に美しく、児戯のような闊達で乱雑な手ばかり見ていた目が狼狽えるほどであった。具体的にはⅣ-2の若衆、Ⅲ-3の藤娘、Ⅱ-38の鷹などは特に上手であった。またⅠ-22の文読む女が捧げている手紙の文字は、他は只の波線であるところ上手の文字らしく描かれていて読もうと思えば読めそうで面白かった。時系列に並んでおればどの段階でどういう省略がなされたかが知れるかもしれないが、そんなことは蒐集家や学芸員さんこそが喉から手が出るほど望んでいたことであろうから、自分のような一鑑賞者はやぁぞんざいだやぁ面白いと気楽に眺めていることにしよう。にしても被施術者たる寿老人が歩きながらの梯子剃りっていくらなんでも危ないだろう。

あの大津絵この大津絵どの絵が絵葉書になっているだろうとワクワクしていたが展示物からは三枚ほどしか絵ハガキになっておらなんだ。至極残念であった。

三周ほどして十分に堪能したので食事のために新橋に向かった。駅からは少し歩くがここは美味しいだろうとあたりをつけたGiglioというところで400円の前菜と1000円の「北海道産蝦夷鹿肉とマッシュルームを赤ワインで煮込んだソースのフェットゥチーネ」を頂いた。

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この前菜が出てきた時点で圧勝である。これが400円というのは誠にもって申し訳ない。中ではライスサラダが特にうまかったが、皆どれもこれも大変満足な味であったの。

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平麺のせいか見た目よりも量がある。豚程脂がくどくなく牛程鉄くさくないこれが鹿というものなのだろう。フルボディで食べ応えのある味付けである。

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パンはオリーブオイルで頂くやつであった。

今回はジビエの誘惑に負けてしまったが、必ずもう一度行ってシエナの名物イ・ピーチとやらを頂く所存である。

新橋に来たのは汐留美術館で開催中のブンリ派を見るためであった。建築は全く以て不勉強でそもそもブンリ派が何から分離したくてブンリ派を名乗っているのかもよくわからないありさまだったが、フライヤーの図案文字があまりに秀逸だったので興味をそそられたのである。行ってみて初めてブンリ派が、東京駅の辰野金吾や迎賓館の片山東熊のものした様式建築、そこにぶつけられた野田俊彦の建築非芸術論、その二つをまとめて超克せんとして起こった建築運動であるということを知った。分離派事始めとされる卒業制作の発表が1920年、そこから数えると今年は100周年にあたるので、日本建築学会は8年かけてブンリ派について研究しこの展示はその集大成であるという。なるほどブンリ派の図案文字にばかり気をとられていたが展覧会のタイトルは「分離派建築会100年展」となっておった。好きな人には設計図や青焼き、また精緻に作られた建築模型というのはたまらないものであるが、そのたまらない中でもこの展覧会の石本喜久治の納骨堂の正面図はその端正や陰影の美しさを生涯の折々に思い起こして心の内で撫でまわしたくなるような特等である。山田守の放物線の橋も好もしいし、坂口捨己の別荘にはあこがれるし、瀧澤眞弓の有機的な柔らかい曲線の建物も素敵だ。これまでこんな建築運動のことはろくすっぽ知らなかったのに、よいと思っていた渋ビルなんかの源流が実は100年前から連綿と受け継がれていたものであることを諭されたようで、世界は想像していたよりも過去を大事に引き継いでいるのだなぁと感銘を受けた。ところで建築家というのはレタリングにも優れているのか、設計図に書き込まれた文字や展覧会のカタログの表紙の文字などがどれもこれもしびれるほどかっこいい。そういうレタリングや卒業制作の設計図、青焼きなどが絵葉書になっていたらぜひ買い求めようと思っていたが残念ながら見当たらなかった。いずれにしても、渋ビルが好きだったり、青焼きが好きだったり、設計図が好きだったり、明治大正あたりのレタリングが好物というような人は、この展覧会に来ると得をするだろう。

それからまた駅に戻って、ニュー新橋ビルの一階で「いろいろ入っている」というミックスジュースを頂いた。開店して何十周年かの記念で200円とのことだった。たぶんバナナ、オレンジ、イチゴあたりが入っているだろうと思ったがよくはわからなかった。よくわからなかったが総論としてなかなかにうまいものだった。

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